2022年8月8日月曜日

ウクライナ侵攻と抑止力の話

 ロシアのウクライナ侵攻から半年になろうとしている。いまだに停戦に向けた進捗がみられないのは,残念な限りだ。

ロシアの侵攻開始から現在の状況について,まるでそれを予言したような論考を見つけた。海幹校戦略研究2015年12月号に「抑止概念の変遷 多層化と再定義」という論考がある。そのなかで,冷戦期の北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構(WTO)の関係の考察が今のウクライナとロシアの関係に非常によく当てはまる。

それによると;

1983年にミアシャインマーという人が「通常戦力と抑止」を出版している。(John Mearsheimer, Conventional Deterrence, Cornell University Press, 1983.)

冷戦期WTOはNATOより通常戦力ににおいて圧倒しており,開戦となるとWTOが電撃的勝利と収める公算が高いとされていた。ミアシャインマーの考察はそれに対する反論であり,以下のような話だ。

  • NATOの通常戦力は劣勢であっても有効な展開によってWTOが電撃的に勝利することはできない。
  • WTOは限定的勝利をしたのち,それを防御する方に回らざるを得えず,それ以降消耗戦となる。
ミアシャインマーは以上のことからNATOの戦力は劣っていても抑止力として機能すると述べている。さらにNATOは精密誘導兵器によって状況をさらに好転できる。つまり抑止力はさらに強化されると期待している。

この話を読んで,ロシアのウクライナ侵攻の状況と比較したくなるのは私だけではないだろう。今のウクライナの状況はこれが抑止力とならなかった場合を端的に表している。
ウクライナで起こったことは,
  • ロシアは当初キーウを2週間程度で電撃的に制圧すると考えて侵攻したが失敗した。
  • その後東部を侵攻したがウクライナの抵抗にあって膠着状態が続いている。
  • HIMARSに代表される精密誘導兵器によってロシアは兵站を中心に大きな打撃を受けており,苦戦していると言われている。
ミアシャインマーの論説から抑止力を除くと今のウクライナの状況はまさに想定通りだ。
なぜロシアは侵攻したのか。ロシアは何を見誤ったのか。西側諸国が最初からウクライナに対する今のような軍事支援を明示すれば,ロシアは侵攻しなかったのか?
歴史にたらればは通用しないが。。

武力の行使の抑止には武力による抑止力の強化しかないというのが現実なのか。これはこれで,悲しい現実だ。


2022年3月29日火曜日

戦争を考えてみた

 戦争や平和といった社会科学は専門ではないが,授業で平和科目を担当していることもあり,このことについて考える機会がある。2018年9月の小文でそれについて書いていた。戦争によって命が失われている今,そもそも戦争とはなどという論考をしている意味も疑問に思えるが,あえて今ブログに掲載してみようと思う。

小文の後半の段落「なぜ暴力なのか」「だから?」のところで,人間の集団(国家)間の軋轢を解決する手段としての暴力(戦争),それをを防ぐメカニズムついて書いている。今ウクライナで起こっていることは,軋轢を解決する手段として暴力は厳然として存在し,世界規模につながった経済活動も戦争を防ぐ抑止力とはなっていないことを示している。


なぜ人は戦うのか

2018年9月14日

2022年3月30日改訂

 この小文は文末に挙げた文献の私なりの解釈をまとめたものに近い。特に3),5)による部分は多いが,文献の理解や考察等,文責は筆者にある。

戦争とはなにか

戦争について話すまえに,まず戦争とは何かを考えておきたい。ここでは戦争とは人の集団と集団の間におこるいろいろな軋轢を暴力によって解決することを戦争と定義する。このような考え方は有名なクラウゼビッツの戦争論7)で議論されている。言い換えれば外交交渉の手法として暴力が使われるときである。したがってどのような形であれ,交渉が終結すればその戦争は終わる。

戦争の始まり

  人類(ホモ・サピエンス)の本能として戦争はあるのだろうか? どの動物も餌を得るためや子孫を繁栄させるために戦う。狩猟時代の人類にも小規模な集団同士の戦いは存在した。しかし戦争と言えるような大きな集団による戦闘は,狩猟時代には少数の例外を除いて無かったと考えられている。戦争が人間の本能ではない証拠ということである 1)。

戦争の始まりは農耕の開始と時期を同じくする。約一万年前だ 1)。それ以前の狩猟時代,集団は獲物を求めて常に移動していた。集団同士が出会ったとしても,その間に相互作用が生じる必然性はなく,すれ違うだけだったと考えられる。一方,農耕には土地が必要であり,集団は土地に定着する。それによって隣接する集団との間に相互作用,即ち外交関係が生じる 2)。農業には不作や豊作がつきものだが,狩猟時代のように容易に新たな場所を求めて移動することはできない。ある集団が不作にみまわれたとき,隣接する集団から略奪することによってそれを補うことがある。戦争の始まりである。

 農業は多人数による共同作業だ。多人数の集団内には階層が生じ,集団は支配階級と被支配階級に分かれる。不作は集団内に不満を作りだす。支配階級は他の集団から作物を略奪することによって被支配階級に利益をもたらし,それによって自分の地位を保つこともあるだろう。しかし,戦争が人間の本能ではないとしたら,集団間の話し合いによる解決の可能性はないだろうか。もちろん飢えていない集団からみると,供与の対価が無いとしたら,結果として生じるのは不満だけだろう。供与する側の支配者にそれを甘受する理由は無い。だが,戦闘は双方に被害をもたらす。戦いによる悲劇は当時の人類も同じだ。集団間の外交が戦闘に至ることがあったとしても,長期的には平和的な共存に収束する可能性があるのではないか。

 平和的な共存は歴史が明確に否定している。戦争が歴史に登場した一万年前以降,人類の歴史から戦争が絶えたことはない。戦争は人類の歴史そのものであり,戦争の指導者として名を残した英雄は,カエサル,ジャンヌ・ダルク,始皇帝,諸葛孔明,平清盛,源頼朝,足利尊氏,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,西郷隆盛,などなど枚挙に遑がない。英雄即ち戦勝者といっても過言ではない。この事実の前には,平和主義という考え方は無意味とさえ思えてくる。そしてこれは,人が戦う理由が単に物的な利害関係だけではないこと示唆している。

 英雄は,戦争の別の側面も表す。集団内に不満が生じたとき,支配階級が戦争を起こし被支配階級の不満を抑制すると述べた。戦争は支配階級によって発動され,被支配階級はその恩恵または被害を蒙るという構図にみえる。しかし,英雄を崇拝するのは被支配階級もおなじである。戦争は支配階級が発動し,被支配階級は常に強制や抑圧を受けるとは限らない。例えば日露戦争の時,提灯行列で戦勝が祝われたのは知られている。真珠湾攻撃の際もその国民の多くが歓喜に沸いた。

 戦争は支配階級のみによって発動されるのではない。被支配者層も有形無形の利益を得ることによって戦争を支える。1)ではこれを,支配者層と被支配者層の間の利益交換と評している。

実態のないもの

3)によると,人類(ホモ・サピエンス)は約7万年前に起きた認知革命(cognitive revolution)により,抽象的な概念を共有できるようになった。死者を弔う埋葬という行為はその端的な例だ。抽象的な概念に実態はない。フィクションである。人類は神話,宗教, 国家と言ったフィクションを共有し,それによって直接面識のない何千,何万,何億もの個が集団として行動するようになった。実態がない概念であるからこそ面識の無い多数の個が共有できる。これは他の動物にはみられない,現代の人類に大きな繁栄をもたらした要因であり,人類が人類たる所以とも言える。人類以外の類人猿にも集団行動は見られるが,血縁関係を中心とした小規模な集団に留まる。人類とおなじ人属のネアンデルタール人にこの能力はなかった。人類とネアンデルタール人との大きな違いであり,前者が絶滅した要因との説がある。

 フィクションは,集団における利益も創り出す。当初,集団やその構成員が戦争によって得る利益は物的なものだけだった。しかし,フィクションはそれらに単なる物以上の価値を与える。希少価値のあるものには「貴重な」,また集団の支配者から得たものには「拝領の」というような意味が加わる。さらに集団の中での地位や名誉など,フィクションそのものが構成員にとって利益となる。集団のために犠牲になるという行為はそれを如実に表している。前述の支配者と被支配者の利益交換を通じた協調による戦争の発動は,双方が共通のフィクションによって繋がっているからできることだ。

 集団は地上を2次元的に覆うだけではない。言葉の発展は歴史を記録することを可能とし,そのつながりは時間軸にも広がった4)。「先祖代々の」,「伝統的な」という言葉は,これが集団をつなぐ最も重要なフィクションということをも感じさせる。フィクションを元にした集団は時間・空間を覆い,非常に強固かつ大きく発展した。

 フィクションによるつながりは,農耕が始まる以前の狩猟時代に始まっていた。しかし,狩猟時代は大集団を支えるほどの食料の安定な供給がなく,また常に移動していたため,集団はそれほど大きく成長することはなかった。前述のように土着していない集団同士では外交も限られたものだった。農耕が始まることによって集団は土着し,大きくなる。すでに狩猟時代からそれぞれの集団はその元となる固有のフィクション(理念や宗教)を共有している。異なるフィクション(端的には宗教だろう)によって形成された集団間の外交は単なる物的な利害を超えた複雑なものになり,時に武力衝突となる。近年の戦争は,物的利害より実態の無いフィクションの軋轢が要因になる事も多い。個々の武力衝突の原因は多様で複雑だが,農耕の発展とともに始まったフィクションによる集団の形成,それに伴う複雑な外交関係が戦争の根本的な原因であり,その意味で,戦争も外交交渉の一形態である。

なぜ暴力なのか
 集団間の衝突の根本的な原因はフィクションの共有による集団の形成という,人類が今日に至る発展を遂げた理由そのものに帰着する。本能ではないにしても性(さが)だろう。 だが,集団間の衝突が人類の性(さが)だとしても,それが暴力に発展する必然はないとも考えられる。個や集団の間に軋轢が生じたとき,その解決を暴力に頼るのは,人類にかぎらず動物一般にみられる行為である。
 暴力以外で軋轢を解消するためには言語が必要となる。言語の発祥時期の特定は困難だが,複数の材料を組み合わせた道具が約10万前ころからみられ,そのような複雑な技術の伝承には高度な言語が必要と考えられている。即ち10万年前ころには言語が見られたと考えられる。しかし,集団間の紛争を解決できるような複雑な交渉に堪える言語の発達があっただろうか。複雑な交渉には文字による記録が必要と考えると,それが可能になってから高々数千年の歴史しかない。それ以前は暴力以外に軋轢の回避の方法は無かっただろう。集団間の軋轢には限らない,個同士の戦いも暴力が唯一の方法だったと考えられる。
 言語や文字が十分に発達したのちも,軋轢の解消はまず暴力だった。戦争そのものを規制するまたは違法化するというプランはサン・ピエールの永久平和論(1713)でようやく見ることができる。国際条約として戦争の違法化という動きは,第1次世界大戦以降である。つい20世紀まで前半まで軋轢を解消する方法はまず暴力だった。
 進化の歴史を考えると,対話による紛争・軋轢の解決は,非常に新しい特殊な手法であり,戦いイコール暴力というのが,人類に限らず動物が共通に持つ性質ではないだろうか。戦争は,フィクションによる集団の衝突という人類の性(さが)と,軋轢を暴力によって解決するという動物の本能が相まって起きる現象と言えるのかもしれない。

戦争はなくせるのか 
 戦争が人類の本能ではないにしても,性(さが)であれば,戦争を止めるためにはなにがしかのメカニズム,抑止力,が必要だろう。人類を滅亡させる能力を持つ核による抑止は,その最たるものであろう。戦争の個々の原因を分析し,それを元に戦争をなくすような議論は多く行われている 。しかし「人類がフィクションのもとによって大きな集団として行動する能力」が戦争の根原ならば,個々の戦争の原因追求は根本的な解決にはつながらない。

 日本史を振り返ると,江戸時代は約260年にわたって大規模な戦闘が無い状態が続いていた。これは諸藩に対する徳川幕府の強大な軍事力,すなわち徳川幕府に対して攻撃を仕掛けても無駄であるという拒否的抑止力による無戦争状態とも考えられる。実際,幕府の力が弱まり拒否的抑止力が失われると内乱が生じた。だがその内乱の規模は限定的だった。外国からの侵略圧力に対抗するため,国内を一つにまとめる必要が生じ,「日本国」というフィクションによる統合が行われたからだ。現在の日本で内乱は考えられない。しかし,明治維新からまだ150年である。徳川幕府260年より100年以上も短い。なぜ日本が再分割することを想像できないのか? それは,諸外国との外交関係によって日本というフィクションが強固に確立しているからではないだろうか。

 ならば地球全体が一つの社会として再構成されれば,地球上の戦闘はなくなるかもしれない。歴史をみると,人類全体は大きな集団へと統合つづけていると考えることはできる 3)。それが地球全体を覆うことはあるだろうか。近年,英国のEU離脱,米大統領の言動,フランス国民連合の興隆にみられるナショナリズムは,地球市民の実現には逆行している。明治維新の類推では,宇宙人の侵略があれば,地球人と言うフィクションによる統合があり得るかもしれないが,現実離れしている。

フィクション再び
  5)は,フィクションを2つに分類している。一つは宗教(religion),もう一つをスピリチュアル(spiritual)としている。
* 宗教は,教義(法律)を定めそれを信じる(従う)ものとされる。キリスト教やイスラム教など一般的な宗教もあれば,社会主義(国家),民主主義(国家),資本主義なども物理的な存在では無いと言う意味でフィクションであり,それを信じて活動しているものにとっては宗教である。
* スピリチュアルは,何かを追い求めるフィクションという定義である。我々とは何か?存在とは何か?などの哲学,自然の真理を探究する科学もこの範疇だ。(精神も規則や法則を作ってそれを守る(信じる)ということになれば宗教となる。)
 
 現代社会で,世界を支配しているフィクションは宗教である。戦争は宗教間(国である事が多い)の戦いだ。それに対し,スピリチュアルは宗教と直交しそれらを貫くフィクションとなり得る。自然科学の探究という名のもとに,国や(狭い意味での)宗教を超えて人々が協力する理由をここに見ることができる。しかし残念なことにスピリチュアルというフィクションは世界を覆って戦争を無くすほど大きく強固なものにはなっていない。ここに宗教とスピリチュアルの大きな違いがある。スピリチュアルは何かを探究し解を追い求めるフィクションである。一方宗教は教義を定め,これに従えば現世だけでなく後世においても幸せになる,という答えを授けるフィクションだ。人は,答えを,言い換えれば救いを授けてくれるものに集まる。科学のようなスピリチュアルが世界を覆うことは想像しがたい。

現在でも宗教によらずほぼすべての人類が共有しているフィクションは存在する。貨幣である。どの国家の住民も,米国を敵視するテロリストさえも米ドルを信じている。貨幣の価値を信じてそれを追求する活動,経済は世界共通のフィクションとして抑止力となりうるだろうか。
 さらに現代では,一万年の間戦争の大きな要因となった土地の意味が薄れている。現在でも石油など化石燃料は土地に固有の大きな財産だが,他方で知的財産(これもフィクションだ)が人類の財産の大きな部分を占めている。知的財産は土地とは無関係だ。アメリカのシリコンバレーは情報技術の世界的中心だが,シリコンバレーという土地に価値はない。フィクションが戦争の要因自体を変える時代が近づいているのかもしれない。

だから?
 一万年に及ぶ不断の戦争の歴史が教えることは,戦争を防ぐにはそのためのメカニズムを作らなければならないと言う事だ。 核兵器による抑止力か? それに代わる何らかの抑止力か? 地球市民を創り出す新たなフィクションか? 経済がそれを担うことができるのか?
  近年のナショナリズムは,地球市民の実現には逆行している。米大統領の保護貿易主義による自国の利益の囲い込みは、戦前のブロック経済をも連想させる危険な行為だ。地球人というフィクションによる一つの世界の実現が当面期待できないならば,外交戦略によって戦争抑止のメカニズムを構築する必要がある。しかし,その具体は難しく混沌としている事は,中東や朝鮮半島の状況が示している。
 一方でインターネットやAIの発展,それと相まった経済による世界の緊密な繋がり7,知的財産の拡大による土地と財産の関係の変化は,人類社会を大きく変革しようとしている。その速さと大きさは過去一万年の変化以上かもしれない。これらが核も戦争もない世界を創り出す新たなフィクションへと繋がっていく可能性はあるのだろうか。
 
付記
  短い文章だが,付記を残しておきたい。この小論では,核兵器の存在や戦争の原因を議論するように努めた。議論は抽象的になり具体性は薄れる。その結果,戦争や核兵器のもう一つの本質である,その行使が作り出す現実が隠れる。外交戦略や核による戦争の抑止の議論に個々の人の姿は見えない。原爆が投下された下では何が起こったのか,戦争の最前線では何が起きているのか。戦争の悲惨さは実際に戦争を体験した方々にとって最も重要な事柄であり,戦争抑止の原動力だ。しかしそれは,戦争を抑止するための必要条件であっても十分条件ではない。一万年の戦争の歴史が示す事実である。この相反する側面をどの様に融合して,戦争の無い世界に向かうことができるのか,筆者は答を持っていない。

参考文献
1)人はなぜ戦うのか~考古学からみた戦争~                           松木武彦
2)新・戦争論                                                                    伊藤憲一
3)Sapiens: A Brief History of Humankind                            Yuval Noah Harari
4)  暴力はどこからきたか                                                     山極寿一
5)Homo Deus: A Brief History of Tomorrow                        Yuval Noah Harari
6)More On War                                                                Martin van Creveld
7)戦争論(まんがで読破) クラウゼビッツ,バラエティ・アートワークス
                         

 

2022年2月26日土曜日

人権とか民主主義とか

 なぜ人権を尊重するのか。客観的な理由はない。人間の作る社会集団の規模がとても大きくなっている。数十億の人が経済的、政治的に強く繋がった共同体をつくっている。そのような非常に大きな共同体が持続的に繁栄していくための基盤として人権の尊重、民主主義を共有する。現在の世界はこの思想を共有する集団が多数派となっている。

 人権主義や民主主義はそれが正しいと理由で多数派なのではなく、歴史の中で勝者となったから多数派を構成している。私は構成員の1人としてこの考え方を支持している。人権主義や民主主義という宗教の信者と言うこともできる。

ここ数ヶ月世界で起こっている事は、人権主義や民主主義が歴史的な勝者と言うのは時期尚早と言う事なのだろう。。

2022年2月24日木曜日

冬のスポーツの物理7:スケートはなぜ滑る?

 冬のスポートの物理についていくつか調べていて,スケートやスキーが滑る理由はどうなっているのだろう。よく分かっていないという話を聞いた記憶があるけど。。

少し調べたのだが,これは,,,禁断のネタだった。。。とても難しく,今でも解決しているのかどうか分からない。

以前はこんな説があった。

1)圧力融解説。

圧力をかけると氷がとけてスケートの刃と氷の間の水が潤滑剤になるという説。しかし人がかける圧力は小さすぎとか,この説では説明できない低温でも氷の上は滑るなど。現在では否定されている。

2)摩擦融解説

スケートの刃と氷の間の摩擦で氷がとけて滑るというせつ。しかし,滑りやすいと摩擦は小さくなって氷が溶けにくくなるという矛盾がある。

少し調べてみると2021年にこのことについての論文が2本見つかった。どちらもPhysical Review Xという有名な論文誌に掲載されているのだが,この2つ違うことを言っているように見える。ちょっと紹介してみよう。


1つはNanoreollogy of Interfacial Water during Ice Gliding(氷滑走における表面水のなのレオロジー)*

レオロジーというのは日本語で流動学。物体の変形や流れの研究分野。

この論文は氷と物体との間にある水(Interfacial Water)の特性を調べている。その結果,氷の物体の水は普通の水とは性質が大きく違う粘性を持っていると結論している。つまり油のような性質をもっているということだ。氷が滑るのは氷と物体の間に油があるような状況ということのようだ。この粘性は温度とともに代わり,もっとも滑りやすいのは-10℃くらいと言っている。


もう1つはFriction on Ice: How Temperature, Pressure, and Speed Control the Slipperness of Ice (氷上の摩擦:温度,圧力,速度がどのように氷の滑りやすさに関係するか)**

この論文は氷の摩擦係数を温度,圧力,スピードを変えたいろいろな条件で調べて,それと分子運動学の計算を比較している。その結果から,

「氷の内部は分子同士がしっかり結合した結晶だが,表面には動きやすい水分子が存在する。そのおかげで氷は滑りやすい。」

という説だ。この効果は氷の温度が低いと小さくなり高いと大きくなる。なので温度は高い方が良いのだが,温度が融解点(0℃)に近づくと氷の表面が削れら足りして変形しやすくなって,摩擦は大きくなる。彼らの研究では-6℃くらいが最も滑りやすいとなっている。


実際のスピードスケートで使われる-5℃くらいの氷温の摩擦はどちらの論文も同程度の結果のようだ。一方は摩擦に関与する潤滑水の性質を直接調べたもの,一方は摩擦の測定と計算の比較なので違う手法なのだが,2つは同じことを言っているのだろうか?

同じことを違う側面から見ているような気もするが,専門外の論文なのでよくワカライ。。。

*  Physical Review X 11, 011025(2021)

**Physical Review X 9, 041025 (2019)


2022年2月21日月曜日

冬のスポーツの物理6:スラップスケート

 スピードスケートのトラックはダブルトラックが使われる。これはインコースまたはアウトコースからスタートして,トラックを半周したところでインとアウトが入れ替わる方式だ。 500mのような短距離のレースの場合,インスタートアウトスタートでタイムに差があるではないかと言うことが問題になる。

 トラックを一周するとき。後半のカーブの方がスピードが上がっている。なので後半を半径の大きなアウトコースを走る。つまりインスタートの方が有利ではないかということだ。実際,スピードスケートと横Gでやった計算を使うと,時速約60kmでカーブに入ったとき,インとアウトコースでは横方向の加速度が15%ほど違う(インコースの方が大きい)。そのため1998年の長野オリンピックの頃はインスタートとアウトスタートの2回走って,その合計タイムで順位を争っていた。

しかし最近の 500mは1回のレースで順位を決めている。技術や用具の発達でインスタートアウトスタートにそれほど差がないと考えられるようになったからということだ。

 用具の発達の一つにスラップスケートというのがある。これを考えてみよう。

スラップスケートというのはスケート靴の踵と刃(ブレード)が離れる機構をもった靴のことだ。図の左はスラップスケートで滑走している様子を表している。後方(スケートの場合まっすぐ前にはキックできないので斜め後方だが)に強く蹴り出して前進するためには,踵をあげて大きく前傾した方がよい。スラップスケートの場合,踵をあげてもブレードは氷のから離れずに氷を蹴ることができる。

真ん中は踵とブレードが一緒に持ち上がるときの様子。踵をあげるとブレードの前側だけが氷をける。すると氷に対する圧力が大きくなって氷を削ってしまうだろう。そうなると氷とブレードの摩擦が大きくなってスピードが落ちてしまう。

スラップスケートでないときにブレードが氷から離れないようにするにはどうすればよいだろうか。右の絵がその様子だ。ブレードを氷の上に残すためには踵を上げることができず,その結果蹴り足を十分に伸ばすことができない。結局氷に力を伝える時間が短くなっている。力学の言葉では力×時間を力積と言い物体の運動量の変化になる。今の場合は速度の変化(増加)と考えることができる。

 スラップスケートは氷を蹴る力を効率よく選手速度の増加に変えることができる。もちろん従来のスケート靴とは滑る技術も違のでそれに適応するための練習時間が必要だ。1998年の長野オリンピックはスラップスケートが使われ始めた頃だった。スラップスケートの効果についての科学的な解析はすぐになされたようだ。それを踏まえて長野オリンピックにどう対応したのか,選手,科学者,開発メーカーも含めた興味深い研究記録が残っている。


2022年2月19日土曜日

冬のスポーツの物理5:スノーボードクロス バンピング

 スノーボードクロスやスキークロスの技術にバンピングというのがある。コース上のウェーブという波打ったところで加速する技術だ。ウェーブはコースが波打っているが全体では緩斜面になっている。原理的にはコースに傾斜がなくても加速できる。この仕組みを考えてみよう。



原理はフィギュアスケートのスピンと同じだ。スピンでは腕をたたんだが,スノボクロスでは代わりにウエーブの底で立ち上がることによって加速している。スピンのところで話した角運動量保存保存則より,続回転速度を速くするにはで計算した心力に逆らってした仕事が速度に転嫁された,という方が直感にあっているかもしれない。とにもかくにも,速度が大きいウエーブの底で立ち上がるのがコツだ。その後ウエーブを上ると速度が落ちるがウェーブの底で加速したぶんだけ速度がましている。2番目の頂点では素早くしゃがみ込む。すると,次のそこでもう一度立ち上がって加速することができる。後述するようにウェーブの頂点でしゃがみ込むときに速度は変化しない。選手はこれを繰り返して加速しているのだ。いくらでも加速できるわけではない。頂点での速度が速すぎると板が浮いて(ジャンプして)しまい,次のウェーブでの加速にうまくつながらない。


計算してみよう。(高校3年生レベルの物理かな)

コースのモデルとして図のような半径$R$の円弧が組み合わさったものを考えよう。ウェーブの頂点と谷の高さの差$H$とする。最初の頂点で選手は止まっていたする。選手の体重(質量)を$m$,重力加速度を$g$とすると,滑りおりた底での速度$v_1$は力学的エネルギー保存則から

$\frac{1}{2}mv_1^2=mgH$

$v_1=\sqrt{2gH}$    

となる。ウェーブの底で立ち上がることによって,選手の重心が$h$だけ高くなったとする。これは選手の回転の半径が$R$から$R-h$に変化したことになる。立ち上がった後の速度を$v_h$と書くと,続回転速度を速くするにはの(1)式で$v_{R_0}$を$v_1$,$R_0$を$R$,$R_1$を$R-h$に置き換えれば求まる。

$v_h=\frac{R}{R-h}v_1=\frac{R}{R-h}\sqrt{2gH}$

次のウェーブの頂点での速度を$v_2$として力学的エネルギー保存則を考えると

$\frac{1}{2}mv_2^2=\frac{1}{2}mv_h^2-mgH$

$v_2^2=v_h^2-2gH=\frac{R^2}{(R-h)^2}2gH-2gH=2(\frac{R^2}{(R-h)^2}-1)gH$

$v_2$が正になるのはすぐにわかるだろう($1<\frac{R}{R-h}$)。2番目の頂点では速度が増えたわけだ。

 次に2番目の頂点でしゃがみ込むのだが,これは重心が重力中で落下しているだけなので滑走速度は変わらない*。逆に重心の落下より速くしゃがんでしまうと足が雪面から浮いてしまう。

ウェーブの頂点で選手を下向きに引っ張っている力は重力$mg$だ。ウェーブの頂点で斜面にそって滑っている選手は半径$R$の円運動をしている。このとき選手が感じる遠心力は$m\frac{v_2^2}{R}$になる。これが重力より大きくなると,選手は雪面から離れてしまい,頂点でジャンプしてしまい次のウェーブでうまく加速できない。選手はこれを調整しながらこバンピングしているわけだ。

具体的な数値はどれくらいなのだろう。コース設計の情報はわからないが,

$H=1.5m$ 人の背丈より少し低いくらい。

$R=5m$   動画を見た感じ?

$h=0.5m$ しゃがんだ姿勢と立った姿勢で人の重心の位置がこれくらい変わる?

これらを使って計算すると

$v_1 \approx 5.4 m/s$

$v_h \approx 6.0 m/s$

$v_2 \approx 2.6 m/s$

1回バンピングすると,速度が$2.6m/s$増えるという結果になった。それらしい数字だろうか?またこの割合でバンピングを繰り返すと3回目には足が雪面を離れてしまうので,調整しなければならないという結果になった。それらしい??

*もし選手の足が雪面から離れないような工夫をして(たとえばレールの上に足を固定して滑るとか)力を使って落下速度より速くしゃがめば加速できるが,,,


おまけ

 バンピンングと同じ原理は他の競技や遊具にも使われている。

ブランコの立ち漕ぎはバンピンングの原理そのままだ。ブランコを前後に振ったところでしゃがみ込み、最下点で立ち上がる。座り漕ぎの場合はあまり目立たないが原理は同じだ。後に振ったところで足を曲げ、最下点から前に振り上げるあたりで足を伸ばす。これによって重心の位置を上げている。さらに体全体を後ろに反ることによってより重心を高くしている。立ち漕ぎの場合も屈伸をする代わりに、最下点を通って前方へ振り出すところで後ろに反るようにして足を前に出す動作で漕ぐこともできる。

もう一つの例は、鉄棒の大車輪。鉄棒の上から体を振り下ろすときは、体を後ろに反り気味にしておいて、最下点から前に振り上げる時に足を前に出して体を曲げる。この動作で重心を持ち上げている。大車輪の映像を見るとこの時回転の速度が上がっているのがわかる。この動作は体操用語で「あふり」と言うそうだ。原理はバンピンングやブランコと同じだ。


2022年2月17日木曜日

冬のスポーツの物理4:スキージャンプ

 スキーのジャンプ競技は空力との戦い。複雑すぎて定量的な話はとても無理。

まず,参考文献。スパコンも動員してジャンプの空力を研究した話だ。このお話は参考文献の私なりの解釈です。

よく知られているように,スキージャンプはジャンプといっても斜面に沿って落下しているようなものだ。踏切では体を大きく前に投げ出して,ほとんど水平に近い形になる。しかし、そもそも飛んでいく方向が下向きなので,進行方向と体の角度,いわゆる仰角はとても大きくなる。これがジャンプの特徴だ。図はその様子を表している。


 ジャンプの空力特性は飛行機の翼と同じように考えることができる。進行方向に向かって仰角をとることによって翼(体)の下側の空気が曲げられ,下から押される力が働く。忘れてはいけないのは翼(体)の上を通る気流も体に沿って曲がるということだ。これをコアンダ効果という。これによって翼(体)には上に引っ張り上げられる力もはたらく。飛行のときにはこれらが合わさって,気流から進行方向と反対向けに受ける抵抗「効力」と,上に持ち上げる力「揚力」が発生する。

               参考文献をもとに筆者作成

 飛行機の飛行とスキーのジャンプは仰角に大きな違いがある。飛行機はエンジンを使って前向きの推力を得ている。なので仰角が小さくても充分な揚力を超えることができる。この状況で仰角が大きすぎると,効力、すなわち進行方向に対する抵抗が大きくなるので得策ではない。

 スキーのジャンプはエンジンのような推力をもたない。それに代わるものは重力だけだ。その結果飛行機と比べると大きな仰角をとって揚力を得ている。飛行機が水平飛行しているとの仰角は3°から5°くらい。離陸のときは大きな仰角をとって揚力をえるがそれでも15°程度のようだ。スキーのジャンプの仰角は最大で40°近くになる*。仰角が大きくなればなるほど揚力も大きくなるのだがどこまでも大きくすればよいというものではない。仰角が大きすぎるとコアンダ効果が働かなくなり,体の上側の空気が体にそって流れなくなる。これは飛行機の翼でも起こりうることでいわゆる失速状態だ。こうなってしまうと安定した飛行ができなくなり落下してしまう。ジャンプで遠くに飛ぶコツはいかにしてこの安定した飛行体勢を続けるか。適切な抗力と揚力をえる仰角を維持するかだ。適切な仰角は時々刻々と変化していることを忘れてはいけない。

 スキージャンプのもう一つの大きなポイントは踏み切り(サッツ)。選手は時速90キロ近くで踏み切って飛行体勢に移る。そのときいかに早く安定した飛行体勢をとることができるかが勝負のポイントになる。それだけではない。ジャンプ台を滑り降りている姿勢から飛行体勢になるときには,体の形状が大きく変わる。そのときは体の後ろ側の気流も大きく乱れるだろう。理想的な翼の形とはかけ離れている状態だ。いかにして気流をを乱すことなく素早く安定した飛行体勢に移るか。とても難しそうだ。

 助走から踏み切りで安定した飛行体勢に移る。その飛行体勢を長く安定に維持する。これがジャンプの主要なポイントのようだ。適切な飛行体勢,例えば仰角は時事刻々と変わっている。風も吹いている。風の状況がジャンプの結果に大きく影響するのはテレビ中継を見ていてもよくわかる。

ところでいいジャンプの条件は調べるとある程度分かる。だが選手はそれを実現するためにどういう動作をすれば良いのだろう?どのようなトレーニングをすれば良いのだろう?

滑走から飛行体勢への大きな変化。飛行中も風の変化。一流のジャンパーはこの状況を的確に把握して対応し遠くに飛ぶ技術を身につけている。どうやっているのだろう。ビデオ,最近では流体力学のシミュレーション,それらを見ながら試行錯誤して理想的な飛び方を体得して行くしかないのだろうか。小林陵侑選手に代表される一流選手と他の選手は何が違うのかなあ。。。

「風をつかむ能力に秀でている?それは一体何?」


*仰角は飛行中に大きく変化する。踏み切りのとき選手は下向きに飛び出すので仰角は負になる。そのあとすぐ正の角度になる。着地直前には40°近くになるようだ。


冬のスポーツの物理3:続回転速度を速くするには

 これは,冬のスポーツと物理1:フィギュアスケートのスピンの続き。

計算ばかりなので,興味ない方はスキップしてください。(^^;)

前回の後半で,角運動量保存則を利用してスピンを早くすると,回転のエネルギーは増えることを言いました。実際に計算してみよう。内容は大学初年程度の物理になります。



まず,質量$m$の質点が半径$R_0$で回転しているとします。質点の速度を$v_{R_0}$としましょう。このとき角運動量は$運動量×回転半径$となります。なので角運動量$h$は

$h=mR_0v_{R_0}$

運動エネルギーを$E_{R_0}$と書くと

$E_{R_0} = \frac{1}{2}mv_{R_0}^2$

です。

次にこの質点の回転半径が$R_1(<R_0)$になって,速度も$v_{R_1}$なったとします。角運動量が保存していると,

$mR_1v_{R_1} = mR_0v_{R_0}$

なので,

$v_{R_1} = \frac{R_0}{R_1}v_{R_0}$      (1)

となります。このとき,運動エネルギーを$E_{R_1}$と書くと

$E_{R_1} = \frac{1}{2}mv_{R_1}^2=\frac{1}{2}m\frac{R_0^2}{R_1^2}v_{R_0}^2$   (2)

$R_1<R_0$なので運動エネルギーは$\left(\frac{R_0}{R_1}\right)^2$倍になっています。

運動エネルギーの差は

$E_{R_1}-E_{R_0}=\frac{1}{2}m(\frac{R_0^2}{R_1^2}-1)v_{R_0}^2$ (3)


次に質点に働く力から質点の回転半径を変化させるために必要なエネルギーを計算しましょう。

半径$r$ ($R_1 < r < R_0$)のときの質点の速度$v(r)$は(1)から

$v(r)  = \frac{R_0}{r}v_{R_0}$

このとき,質点を回転させるために必要な力(向心力と言います,遠心力と反対向きで大きさは同じ)は

$F(r)  = -m\frac{v(r)^2}{r} = - m\frac{R_0^2}{r^3}v_{R_0}^2$

です。負号は回転中心方向に引っ張る力という意味を表しています(このあたりをちゃんとやるには極座標の知識が必要になります)。

この力が働いているとき,質点の回転半径を$R_0$から$R_1$まで変化させる(質点を引っ張ることになります)ために必要な仕事を計算します。

$ W = \int_{R_0}^{R_1} F(r) dr = -mR_0^2v_{R_0}^2\int_{R_0}^{R_1} \frac{1}{r^3} dr = -\frac{1}{2}mR_0^2v_{R_0}^2\left[-\frac{1}{r^2}\right]_{R_0}^{R_1}$

$= \frac{1}{2}mR_0^2v_{R_0}^2\left[\frac{1}{R_1^2}-\frac{1}{R_0^2}\right]=\frac{1}{2}mv_{R_0}^2\left[\frac{R_0^2}{R_1^2}-1\right]$

予想通り(3)と同じ結果になりました。


2022年2月16日水曜日

冬のスポーツの物理2:スピードスケートと横G

男子の500mの選手は後半のカーブを時速60km程度で走る。先日の北京オリンピック,銅メダルを獲得した森重選手は時速58㎞くらいだった。

 $ v = 50km/h \approx 16.1 m/s $

スピードスケートのトラックのカーブは図のようになっている。


森重選手は内側のレーンの真ん中位を走っていた。そのときのカーブの半径を約$r\approx28m$と考えよう。したがって森重選手がうける遠心力は

$\frac{v^2}{r}=\frac{16.1^2}{28}\approx 9.3 m/s^2$

重力の加速度は約$9.8m/s^2$なのでほとんどそれに近い数字だ。つまり自分の体重に匹敵する力に対抗してカーブを曲がっているのだ。少しのミスで外側にコースアウトしてしまうのも納得できる気がする。
ところで自動車のタイヤの摩擦係数は乾いたアスファルト上で0.8くらいらしい。すると車が耐えられる(曲がることができる限界の)横gは0.8gと考えることができる。

スピードスケートの選手は,乾いたアスファルト上のでの自動車の限界を超えた急カーブを氷の上で切っていることになる。

冬のスポーツと物理1:フィギュアスケートのスピン

北京冬季オリンピックも後半に入った。オリンピック競技と物理の関係を書いてみる。

その第1弾。

「フィギュアスケートのスピンで,始め腕を大きく広げてスピンをして,そのあと腕を体の方に畳むと回転が速くなるのは角運動量保存則の結果」というのは物理の授業あるあるとして(一部では?)有名な話。

角運動量というのは

角運動量=慣性モーメント×回転の速度

で定義される量だ。

回転の速度は1秒間に何回転と考えて差し支えない(物理業界では1秒間の回転数×2πだが気にしないことにする)。

慣性モーメントは物体の回転のしやすさ/しにくさを表す量。これが大きいと回転しにくい(回転しているものはとまりにくい)。質量が同じでも回転半径が大きいと大きくなる。例えば質量が同じ輪(円環)でも半径の大きな輪の方が回転を与えにくく,逆に回っている輪はとまりにくい。

この角運動量が運動中変わらないというのが運動量保存則だ。フィギュアスケートのスピンではこればほぼ成り立っている。例えば腕をひろげた状態と畳んだ状態で慣性モーメントが2倍違うと回転の速度も2倍違うことになる。

実際はどうなのだろう。人の体型はとても複雑なので簡単なモデルで考えてみる。

図のように,人を体重(腕も合わせて)60kg,体の形は半径20cmの円筒とする。この円筒から長さ60cmの円筒形の腕がでている(円筒の中心から測ると80cm)。腕の重さはそれぞれ3kgとしよう(腕の重さは上腕,下腕,手を合わせて体重の5%くらいだそうだ)。腕を畳んだ状態では半径20cmの円筒形になる。

 この形で腕を伸ばした状態の慣性モーメントを計算してみると約1.2[kg m^2]となった。腕を畳んだ状態では約2.8[kg m^2]。つまり腕を伸ばした状態とたたんだ状態で慣性モーメントは2.3倍違う。角運動量保存則を当てはめると腕を伸ばしたときと畳んだときで回転のスピードが2.3倍!になるという結果だ。

 ところで角運動量は変わらないが,回転のエネルギーは腕を広げたときよりも畳んで早く回転しているときの方が大きくなってる。腕は遠心力で広がろうとするのでそれに逆らって畳んむために力を使って腕を引っ張りこまなければならない。そのとき腕の力を使って行った仕事(エネルギー)が回転のエネルギーに転嫁したと考えることができる(エネルギー保存則!)この部分,こちらで大真面目?に計算してみました。

2022年1月19日水曜日

科学とは?宗教とは?

科学とは何か,宗教とは何か,書いておこう 

科学  
 身の回りの現象を客観的な言葉で記述すること。どのような言葉を使うかは記述する対象による。 
人間のもつ最も客観的記述に適した言語は数学である。物理学の場合,自然現象を数学という言葉で記述する。歴史的には自然現象を記述するためにその言語である数学の発展を促したこともある。力学を記述するために微分積分学が発展したのは典型的な例。 
客観的ということが重要。個人の思いである主観による主張は科学とは言わない。 科学とは現象を記述することであり,その社会的影響などの倫理的な側面について科学自体は何も語らない。 

宗教  
 人間がつくりあげた物語。客観性は求められない。多くの場合虚構(フィクション)であり,それを(間主観)を共有することによって集団を形成する。 
この観点では,国家,資本主義,社会主義など人類の集団はほぼすべて宗教と考えることができるが,通常は人が生きていくときの持つ不安(例えば死に関すること) を和らげるたり救済する物語が宗教と呼ばれる。
人の行動はほぼすべてなにがしかの主観的な思想すなわち広い意味での宗教によって起こされる。 また前述の科学の社会的意義や倫理も宗教である。