戦争や平和といった社会科学は専門ではないが,授業で平和科目を担当していることもあり,このことについて考える機会がある。2018年9月の小文でそれについて書いていた。戦争によって命が失われている今,そもそも戦争とはなどという論考をしている意味も疑問に思えるが,あえて今ブログに掲載してみようと思う。
小文の後半の段落「なぜ暴力なのか」「だから?」のところで,人間の集団(国家)間の軋轢を解決する手段としての暴力(戦争),それをを防ぐメカニズムついて書いている。今ウクライナで起こっていることは,軋轢を解決する手段として暴力は厳然として存在し,世界規模につながった経済活動も戦争を防ぐ抑止力とはなっていないことを示している。
なぜ人は戦うのか
2018年9月14日
2022年3月30日改訂
この小文は文末に挙げた文献の私なりの解釈をまとめたものに近い。特に3),5)による部分は多いが,文献の理解や考察等,文責は筆者にある。
戦争とはなにか
戦争について話すまえに,まず戦争とは何かを考えておきたい。ここでは戦争とは人の集団と集団の間におこるいろいろな軋轢を暴力によって解決することを戦争と定義する。このような考え方は有名なクラウゼビッツの戦争論7)で議論されている。言い換えれば外交交渉の手法として暴力が使われるときである。したがってどのような形であれ,交渉が終結すればその戦争は終わる。
戦争の始まり
人類(ホモ・サピエンス)の本能として戦争はあるのだろうか? どの動物も餌を得るためや子孫を繁栄させるために戦う。狩猟時代の人類にも小規模な集団同士の戦いは存在した。しかし戦争と言えるような大きな集団による戦闘は,狩猟時代には少数の例外を除いて無かったと考えられている。戦争が人間の本能ではない証拠ということである 1)。
戦争の始まりは農耕の開始と時期を同じくする。約一万年前だ 1)。それ以前の狩猟時代,集団は獲物を求めて常に移動していた。集団同士が出会ったとしても,その間に相互作用が生じる必然性はなく,すれ違うだけだったと考えられる。一方,農耕には土地が必要であり,集団は土地に定着する。それによって隣接する集団との間に相互作用,即ち外交関係が生じる 2)。農業には不作や豊作がつきものだが,狩猟時代のように容易に新たな場所を求めて移動することはできない。ある集団が不作にみまわれたとき,隣接する集団から略奪することによってそれを補うことがある。戦争の始まりである。
農業は多人数による共同作業だ。多人数の集団内には階層が生じ,集団は支配階級と被支配階級に分かれる。不作は集団内に不満を作りだす。支配階級は他の集団から作物を略奪することによって被支配階級に利益をもたらし,それによって自分の地位を保つこともあるだろう。しかし,戦争が人間の本能ではないとしたら,集団間の話し合いによる解決の可能性はないだろうか。もちろん飢えていない集団からみると,供与の対価が無いとしたら,結果として生じるのは不満だけだろう。供与する側の支配者にそれを甘受する理由は無い。だが,戦闘は双方に被害をもたらす。戦いによる悲劇は当時の人類も同じだ。集団間の外交が戦闘に至ることがあったとしても,長期的には平和的な共存に収束する可能性があるのではないか。
平和的な共存は歴史が明確に否定している。戦争が歴史に登場した一万年前以降,人類の歴史から戦争が絶えたことはない。戦争は人類の歴史そのものであり,戦争の指導者として名を残した英雄は,カエサル,ジャンヌ・ダルク,始皇帝,諸葛孔明,平清盛,源頼朝,足利尊氏,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,西郷隆盛,などなど枚挙に遑がない。英雄即ち戦勝者といっても過言ではない。この事実の前には,平和主義という考え方は無意味とさえ思えてくる。そしてこれは,人が戦う理由が単に物的な利害関係だけではないこと示唆している。
英雄は,戦争の別の側面も表す。集団内に不満が生じたとき,支配階級が戦争を起こし被支配階級の不満を抑制すると述べた。戦争は支配階級によって発動され,被支配階級はその恩恵または被害を蒙るという構図にみえる。しかし,英雄を崇拝するのは被支配階級もおなじである。戦争は支配階級が発動し,被支配階級は常に強制や抑圧を受けるとは限らない。例えば日露戦争の時,提灯行列で戦勝が祝われたのは知られている。真珠湾攻撃の際もその国民の多くが歓喜に沸いた。
戦争は支配階級のみによって発動されるのではない。被支配者層も有形無形の利益を得ることによって戦争を支える。1)ではこれを,支配者層と被支配者層の間の利益交換と評している。
実態のないもの
3)によると,人類(ホモ・サピエンス)は約7万年前に起きた認知革命(cognitive revolution)により,抽象的な概念を共有できるようになった。死者を弔う埋葬という行為はその端的な例だ。抽象的な概念に実態はない。フィクションである。人類は神話,宗教, 国家と言ったフィクションを共有し,それによって直接面識のない何千,何万,何億もの個が集団として行動するようになった。実態がない概念であるからこそ面識の無い多数の個が共有できる。これは他の動物にはみられない,現代の人類に大きな繁栄をもたらした要因であり,人類が人類たる所以とも言える。人類以外の類人猿にも集団行動は見られるが,血縁関係を中心とした小規模な集団に留まる。人類とおなじ人属のネアンデルタール人にこの能力はなかった。人類とネアンデルタール人との大きな違いであり,前者が絶滅した要因との説がある。
フィクションは,集団における利益も創り出す。当初,集団やその構成員が戦争によって得る利益は物的なものだけだった。しかし,フィクションはそれらに単なる物以上の価値を与える。希少価値のあるものには「貴重な」,また集団の支配者から得たものには「拝領の」というような意味が加わる。さらに集団の中での地位や名誉など,フィクションそのものが構成員にとって利益となる。集団のために犠牲になるという行為はそれを如実に表している。前述の支配者と被支配者の利益交換を通じた協調による戦争の発動は,双方が共通のフィクションによって繋がっているからできることだ。
集団は地上を2次元的に覆うだけではない。言葉の発展は歴史を記録することを可能とし,そのつながりは時間軸にも広がった4)。「先祖代々の」,「伝統的な」という言葉は,これが集団をつなぐ最も重要なフィクションということをも感じさせる。フィクションを元にした集団は時間・空間を覆い,非常に強固かつ大きく発展した。
フィクションによるつながりは,農耕が始まる以前の狩猟時代に始まっていた。しかし,狩猟時代は大集団を支えるほどの食料の安定な供給がなく,また常に移動していたため,集団はそれほど大きく成長することはなかった。前述のように土着していない集団同士では外交も限られたものだった。農耕が始まることによって集団は土着し,大きくなる。すでに狩猟時代からそれぞれの集団はその元となる固有のフィクション(理念や宗教)を共有している。異なるフィクション(端的には宗教だろう)によって形成された集団間の外交は単なる物的な利害を超えた複雑なものになり,時に武力衝突となる。近年の戦争は,物的利害より実態の無いフィクションの軋轢が要因になる事も多い。個々の武力衝突の原因は多様で複雑だが,農耕の発展とともに始まったフィクションによる集団の形成,それに伴う複雑な外交関係が戦争の根本的な原因であり,その意味で,戦争も外交交渉の一形態である。