2022年3月29日火曜日

戦争を考えてみた

 戦争や平和といった社会科学は専門ではないが,授業で平和科目を担当していることもあり,このことについて考える機会がある。2018年9月の小文でそれについて書いていた。戦争によって命が失われている今,そもそも戦争とはなどという論考をしている意味も疑問に思えるが,あえて今ブログに掲載してみようと思う。

小文の後半の段落「なぜ暴力なのか」「だから?」のところで,人間の集団(国家)間の軋轢を解決する手段としての暴力(戦争),それをを防ぐメカニズムついて書いている。今ウクライナで起こっていることは,軋轢を解決する手段として暴力は厳然として存在し,世界規模につながった経済活動も戦争を防ぐ抑止力とはなっていないことを示している。


なぜ人は戦うのか

2018年9月14日

2022年3月30日改訂

 この小文は文末に挙げた文献の私なりの解釈をまとめたものに近い。特に3),5)による部分は多いが,文献の理解や考察等,文責は筆者にある。

戦争とはなにか

戦争について話すまえに,まず戦争とは何かを考えておきたい。ここでは戦争とは人の集団と集団の間におこるいろいろな軋轢を暴力によって解決することを戦争と定義する。このような考え方は有名なクラウゼビッツの戦争論7)で議論されている。言い換えれば外交交渉の手法として暴力が使われるときである。したがってどのような形であれ,交渉が終結すればその戦争は終わる。

戦争の始まり

  人類(ホモ・サピエンス)の本能として戦争はあるのだろうか? どの動物も餌を得るためや子孫を繁栄させるために戦う。狩猟時代の人類にも小規模な集団同士の戦いは存在した。しかし戦争と言えるような大きな集団による戦闘は,狩猟時代には少数の例外を除いて無かったと考えられている。戦争が人間の本能ではない証拠ということである 1)。

戦争の始まりは農耕の開始と時期を同じくする。約一万年前だ 1)。それ以前の狩猟時代,集団は獲物を求めて常に移動していた。集団同士が出会ったとしても,その間に相互作用が生じる必然性はなく,すれ違うだけだったと考えられる。一方,農耕には土地が必要であり,集団は土地に定着する。それによって隣接する集団との間に相互作用,即ち外交関係が生じる 2)。農業には不作や豊作がつきものだが,狩猟時代のように容易に新たな場所を求めて移動することはできない。ある集団が不作にみまわれたとき,隣接する集団から略奪することによってそれを補うことがある。戦争の始まりである。

 農業は多人数による共同作業だ。多人数の集団内には階層が生じ,集団は支配階級と被支配階級に分かれる。不作は集団内に不満を作りだす。支配階級は他の集団から作物を略奪することによって被支配階級に利益をもたらし,それによって自分の地位を保つこともあるだろう。しかし,戦争が人間の本能ではないとしたら,集団間の話し合いによる解決の可能性はないだろうか。もちろん飢えていない集団からみると,供与の対価が無いとしたら,結果として生じるのは不満だけだろう。供与する側の支配者にそれを甘受する理由は無い。だが,戦闘は双方に被害をもたらす。戦いによる悲劇は当時の人類も同じだ。集団間の外交が戦闘に至ることがあったとしても,長期的には平和的な共存に収束する可能性があるのではないか。

 平和的な共存は歴史が明確に否定している。戦争が歴史に登場した一万年前以降,人類の歴史から戦争が絶えたことはない。戦争は人類の歴史そのものであり,戦争の指導者として名を残した英雄は,カエサル,ジャンヌ・ダルク,始皇帝,諸葛孔明,平清盛,源頼朝,足利尊氏,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,西郷隆盛,などなど枚挙に遑がない。英雄即ち戦勝者といっても過言ではない。この事実の前には,平和主義という考え方は無意味とさえ思えてくる。そしてこれは,人が戦う理由が単に物的な利害関係だけではないこと示唆している。

 英雄は,戦争の別の側面も表す。集団内に不満が生じたとき,支配階級が戦争を起こし被支配階級の不満を抑制すると述べた。戦争は支配階級によって発動され,被支配階級はその恩恵または被害を蒙るという構図にみえる。しかし,英雄を崇拝するのは被支配階級もおなじである。戦争は支配階級が発動し,被支配階級は常に強制や抑圧を受けるとは限らない。例えば日露戦争の時,提灯行列で戦勝が祝われたのは知られている。真珠湾攻撃の際もその国民の多くが歓喜に沸いた。

 戦争は支配階級のみによって発動されるのではない。被支配者層も有形無形の利益を得ることによって戦争を支える。1)ではこれを,支配者層と被支配者層の間の利益交換と評している。

実態のないもの

3)によると,人類(ホモ・サピエンス)は約7万年前に起きた認知革命(cognitive revolution)により,抽象的な概念を共有できるようになった。死者を弔う埋葬という行為はその端的な例だ。抽象的な概念に実態はない。フィクションである。人類は神話,宗教, 国家と言ったフィクションを共有し,それによって直接面識のない何千,何万,何億もの個が集団として行動するようになった。実態がない概念であるからこそ面識の無い多数の個が共有できる。これは他の動物にはみられない,現代の人類に大きな繁栄をもたらした要因であり,人類が人類たる所以とも言える。人類以外の類人猿にも集団行動は見られるが,血縁関係を中心とした小規模な集団に留まる。人類とおなじ人属のネアンデルタール人にこの能力はなかった。人類とネアンデルタール人との大きな違いであり,前者が絶滅した要因との説がある。

 フィクションは,集団における利益も創り出す。当初,集団やその構成員が戦争によって得る利益は物的なものだけだった。しかし,フィクションはそれらに単なる物以上の価値を与える。希少価値のあるものには「貴重な」,また集団の支配者から得たものには「拝領の」というような意味が加わる。さらに集団の中での地位や名誉など,フィクションそのものが構成員にとって利益となる。集団のために犠牲になるという行為はそれを如実に表している。前述の支配者と被支配者の利益交換を通じた協調による戦争の発動は,双方が共通のフィクションによって繋がっているからできることだ。

 集団は地上を2次元的に覆うだけではない。言葉の発展は歴史を記録することを可能とし,そのつながりは時間軸にも広がった4)。「先祖代々の」,「伝統的な」という言葉は,これが集団をつなぐ最も重要なフィクションということをも感じさせる。フィクションを元にした集団は時間・空間を覆い,非常に強固かつ大きく発展した。

 フィクションによるつながりは,農耕が始まる以前の狩猟時代に始まっていた。しかし,狩猟時代は大集団を支えるほどの食料の安定な供給がなく,また常に移動していたため,集団はそれほど大きく成長することはなかった。前述のように土着していない集団同士では外交も限られたものだった。農耕が始まることによって集団は土着し,大きくなる。すでに狩猟時代からそれぞれの集団はその元となる固有のフィクション(理念や宗教)を共有している。異なるフィクション(端的には宗教だろう)によって形成された集団間の外交は単なる物的な利害を超えた複雑なものになり,時に武力衝突となる。近年の戦争は,物的利害より実態の無いフィクションの軋轢が要因になる事も多い。個々の武力衝突の原因は多様で複雑だが,農耕の発展とともに始まったフィクションによる集団の形成,それに伴う複雑な外交関係が戦争の根本的な原因であり,その意味で,戦争も外交交渉の一形態である。

なぜ暴力なのか
 集団間の衝突の根本的な原因はフィクションの共有による集団の形成という,人類が今日に至る発展を遂げた理由そのものに帰着する。本能ではないにしても性(さが)だろう。 だが,集団間の衝突が人類の性(さが)だとしても,それが暴力に発展する必然はないとも考えられる。個や集団の間に軋轢が生じたとき,その解決を暴力に頼るのは,人類にかぎらず動物一般にみられる行為である。
 暴力以外で軋轢を解消するためには言語が必要となる。言語の発祥時期の特定は困難だが,複数の材料を組み合わせた道具が約10万前ころからみられ,そのような複雑な技術の伝承には高度な言語が必要と考えられている。即ち10万年前ころには言語が見られたと考えられる。しかし,集団間の紛争を解決できるような複雑な交渉に堪える言語の発達があっただろうか。複雑な交渉には文字による記録が必要と考えると,それが可能になってから高々数千年の歴史しかない。それ以前は暴力以外に軋轢の回避の方法は無かっただろう。集団間の軋轢には限らない,個同士の戦いも暴力が唯一の方法だったと考えられる。
 言語や文字が十分に発達したのちも,軋轢の解消はまず暴力だった。戦争そのものを規制するまたは違法化するというプランはサン・ピエールの永久平和論(1713)でようやく見ることができる。国際条約として戦争の違法化という動きは,第1次世界大戦以降である。つい20世紀まで前半まで軋轢を解消する方法はまず暴力だった。
 進化の歴史を考えると,対話による紛争・軋轢の解決は,非常に新しい特殊な手法であり,戦いイコール暴力というのが,人類に限らず動物が共通に持つ性質ではないだろうか。戦争は,フィクションによる集団の衝突という人類の性(さが)と,軋轢を暴力によって解決するという動物の本能が相まって起きる現象と言えるのかもしれない。

戦争はなくせるのか 
 戦争が人類の本能ではないにしても,性(さが)であれば,戦争を止めるためにはなにがしかのメカニズム,抑止力,が必要だろう。人類を滅亡させる能力を持つ核による抑止は,その最たるものであろう。戦争の個々の原因を分析し,それを元に戦争をなくすような議論は多く行われている 。しかし「人類がフィクションのもとによって大きな集団として行動する能力」が戦争の根原ならば,個々の戦争の原因追求は根本的な解決にはつながらない。

 日本史を振り返ると,江戸時代は約260年にわたって大規模な戦闘が無い状態が続いていた。これは諸藩に対する徳川幕府の強大な軍事力,すなわち徳川幕府に対して攻撃を仕掛けても無駄であるという拒否的抑止力による無戦争状態とも考えられる。実際,幕府の力が弱まり拒否的抑止力が失われると内乱が生じた。だがその内乱の規模は限定的だった。外国からの侵略圧力に対抗するため,国内を一つにまとめる必要が生じ,「日本国」というフィクションによる統合が行われたからだ。現在の日本で内乱は考えられない。しかし,明治維新からまだ150年である。徳川幕府260年より100年以上も短い。なぜ日本が再分割することを想像できないのか? それは,諸外国との外交関係によって日本というフィクションが強固に確立しているからではないだろうか。

 ならば地球全体が一つの社会として再構成されれば,地球上の戦闘はなくなるかもしれない。歴史をみると,人類全体は大きな集団へと統合つづけていると考えることはできる 3)。それが地球全体を覆うことはあるだろうか。近年,英国のEU離脱,米大統領の言動,フランス国民連合の興隆にみられるナショナリズムは,地球市民の実現には逆行している。明治維新の類推では,宇宙人の侵略があれば,地球人と言うフィクションによる統合があり得るかもしれないが,現実離れしている。

フィクション再び
  5)は,フィクションを2つに分類している。一つは宗教(religion),もう一つをスピリチュアル(spiritual)としている。
* 宗教は,教義(法律)を定めそれを信じる(従う)ものとされる。キリスト教やイスラム教など一般的な宗教もあれば,社会主義(国家),民主主義(国家),資本主義なども物理的な存在では無いと言う意味でフィクションであり,それを信じて活動しているものにとっては宗教である。
* スピリチュアルは,何かを追い求めるフィクションという定義である。我々とは何か?存在とは何か?などの哲学,自然の真理を探究する科学もこの範疇だ。(精神も規則や法則を作ってそれを守る(信じる)ということになれば宗教となる。)
 
 現代社会で,世界を支配しているフィクションは宗教である。戦争は宗教間(国である事が多い)の戦いだ。それに対し,スピリチュアルは宗教と直交しそれらを貫くフィクションとなり得る。自然科学の探究という名のもとに,国や(狭い意味での)宗教を超えて人々が協力する理由をここに見ることができる。しかし残念なことにスピリチュアルというフィクションは世界を覆って戦争を無くすほど大きく強固なものにはなっていない。ここに宗教とスピリチュアルの大きな違いがある。スピリチュアルは何かを探究し解を追い求めるフィクションである。一方宗教は教義を定め,これに従えば現世だけでなく後世においても幸せになる,という答えを授けるフィクションだ。人は,答えを,言い換えれば救いを授けてくれるものに集まる。科学のようなスピリチュアルが世界を覆うことは想像しがたい。

現在でも宗教によらずほぼすべての人類が共有しているフィクションは存在する。貨幣である。どの国家の住民も,米国を敵視するテロリストさえも米ドルを信じている。貨幣の価値を信じてそれを追求する活動,経済は世界共通のフィクションとして抑止力となりうるだろうか。
 さらに現代では,一万年の間戦争の大きな要因となった土地の意味が薄れている。現在でも石油など化石燃料は土地に固有の大きな財産だが,他方で知的財産(これもフィクションだ)が人類の財産の大きな部分を占めている。知的財産は土地とは無関係だ。アメリカのシリコンバレーは情報技術の世界的中心だが,シリコンバレーという土地に価値はない。フィクションが戦争の要因自体を変える時代が近づいているのかもしれない。

だから?
 一万年に及ぶ不断の戦争の歴史が教えることは,戦争を防ぐにはそのためのメカニズムを作らなければならないと言う事だ。 核兵器による抑止力か? それに代わる何らかの抑止力か? 地球市民を創り出す新たなフィクションか? 経済がそれを担うことができるのか?
  近年のナショナリズムは,地球市民の実現には逆行している。米大統領の保護貿易主義による自国の利益の囲い込みは、戦前のブロック経済をも連想させる危険な行為だ。地球人というフィクションによる一つの世界の実現が当面期待できないならば,外交戦略によって戦争抑止のメカニズムを構築する必要がある。しかし,その具体は難しく混沌としている事は,中東や朝鮮半島の状況が示している。
 一方でインターネットやAIの発展,それと相まった経済による世界の緊密な繋がり7,知的財産の拡大による土地と財産の関係の変化は,人類社会を大きく変革しようとしている。その速さと大きさは過去一万年の変化以上かもしれない。これらが核も戦争もない世界を創り出す新たなフィクションへと繋がっていく可能性はあるのだろうか。
 
付記
  短い文章だが,付記を残しておきたい。この小論では,核兵器の存在や戦争の原因を議論するように努めた。議論は抽象的になり具体性は薄れる。その結果,戦争や核兵器のもう一つの本質である,その行使が作り出す現実が隠れる。外交戦略や核による戦争の抑止の議論に個々の人の姿は見えない。原爆が投下された下では何が起こったのか,戦争の最前線では何が起きているのか。戦争の悲惨さは実際に戦争を体験した方々にとって最も重要な事柄であり,戦争抑止の原動力だ。しかしそれは,戦争を抑止するための必要条件であっても十分条件ではない。一万年の戦争の歴史が示す事実である。この相反する側面をどの様に融合して,戦争の無い世界に向かうことができるのか,筆者は答を持っていない。

参考文献
1)人はなぜ戦うのか~考古学からみた戦争~                           松木武彦
2)新・戦争論                                                                    伊藤憲一
3)Sapiens: A Brief History of Humankind                            Yuval Noah Harari
4)  暴力はどこからきたか                                                     山極寿一
5)Homo Deus: A Brief History of Tomorrow                        Yuval Noah Harari
6)More On War                                                                Martin van Creveld
7)戦争論(まんがで読破) クラウゼビッツ,バラエティ・アートワークス
                         

 

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