2019年4月12日金曜日

サイエンスカフェあわてて準備(物理と数学)

サイエンスカフェが迫ってきた。いつものように?あわてて勉強している。いつものことだが,一般の方からの容赦のない難しい質問にどう答えればよいのか,考えても妙案が浮かばない。
人様の知恵を借りようとするのもいつものことだ。。

今回は須藤泰著,「不自然な宇宙」(ブルーバックス)を読んでいる。
その中で 興味のある 部分があったので考えてみたい。
 
 物理はどうして数学で 記述できるのかという問いかけである。 そういえば,物理を 数学で記述できるわけがわからず, 気味が悪いので?物理を止めたと言う 話を聞いたことがある。
 私も常々学生諸氏に,「 物理というのは自然現象を数学という言語で記述することだ」と言っているのだが ではなぜそれが可能かと言われるとちょっと答えに窮する。

須藤泰さんは 3つ場合に分けている。 簡単に紹介すると,
穏健派
  世界が数学で記述できるのは, 物理屋の思い込みで うまく記述できる部分を記述しているに過ぎない。
中道派
  確かに今はうまくできる部分を記述しているに過ぎないけど,そのうち もっと色々なことが,数学で記述できるようになるだろう。 それは完全な技術ではなく近似的なものかもしれないのだけど。
過激派
  世の中は単に数学で記述出来るように見えるだけでなく,厳密に数学に従っている。

須藤氏曰く,多くの物理屋は中道派の考えではないか。 私もそうかなと思う。
 今,素粒子の振る舞いは標準理論という数学的体系で記述できる。でもこれは,今観測できていることをたまたま数学という道具で記述できただけかもしれない。 もちろん自然現象する 記述するためにその言葉である数学そのものが発展してきた。 自然を記述するために人が数学を作り上げてきたことも確かだ。
この先例えば宇宙の究極の あり方が 数学で記述できるだろうか。 それは分からないのだけど多くの物理学者は,できるのではないかと思っている,そんな気がする。

「知性」はどうだろう。 知性を数学で記述できるのだろうか。 もし知性が 今流行っているような ニューラルネットワークで構成されるものであれば,そのうち それを記述する体系ができるような気がする。 しかし今のところ 分からないというのが,本当のところではないだろうか。

では,「意識」はどうだろう。 意識を 数学で記述できるかどうか,これは さっぱり分からない。 もちろん過激派物理屋は,意識も 数学で記述できる日が来ると考えているのだろう。 しかし,数学による記述を,客観的な記述と言い換えると, 主体と客体を分離できない意識が数学で記述できるか 甚だ疑問である。少なくとも今私たちが知っている数学と呼ばれるものとは, 別の体系の何かが必要ではないだろうか。

人の脳というのは,不思議なものだ。

2019年4月6日土曜日

授業がはじまる

来週から授業が始まる。今年は,月曜日の最初の授業で1年生にあう。つまり彼ら彼女らの大学で始めての授業となるわけだ。科目は情報活用演習,物理ではない。もちろん物理のための情報活用が主題で,それをやるつもりだが,,

 Facebookには何度か書いたと思うけど, Yuval Noah Harari氏の本をよんでい。サピエンス全史,ホモデウス。3冊目の21 Lessons for the 21st Centuryはまだ日本語が出ていないようだ。
Harari氏曰く,「今と昔の大きな違いは,数十年後の世界がどのようになっているか想像できないこと」確かにそうだろう。

 私が大学生,大学院生だったころ,インターネットがこんなに世の中を変えるとは思っていなかった。しかし,パソコンらしきものはあったし,コンピュータはネットに繋がり始めていた。その発達は(少なくとも私の)想像を大きく超えるが,30~40年前と今で社会の仕組みが全く変わったと言うわけではない。

 今から30年~40年後はどうだろう。
 昨年ある講演会で高校生が,「自分が大人になったとき,仕事はほとんどAIがやってしまうのではないか。」と質問していた。講演者は,「そんなに心配することはない。人にしかできないことは沢山ある。」と答えていたが,果たしてそうだろうか?

 AIのできることは我々の想像を遙かに超えると思う。AlphaGoが人間に勝ったのはほんの数年前だが,その後の進展もすさまじい。

Wikipediaによると,後継のAlphaGo Zeroは自分自身で対極を繰り返し,ルールを覚えて40時間後にそれまで最強だったAlphaGo Master(人よりは遙かに強い)を圧倒した。さらに後継のAlphaZeroは8時間でAlphaGo Zeroを上回ったそうだ

 AIは決して単独の人工知能ではない。あらゆるデータは世界のどこかに蓄積されつづけ,ネットワークでリンクされる。人の体にICチップを埋め込むなんで今でもやろうと思えばできる。

AI,ビックデータ,バイオテクノロジー,,,これらすべてが一体となって次世代の技術革新を生み出す。

数十年後,人でなければできないことはどれくらい残っているのだろう?
杞憂にすぎないのか,本当なのか?それさえも分からない。

「数十年後の社会がどうなっているか誰も分からない」ことは正しいと言えるのではないか。

さて,来週の月曜日,その数十年後に社会の中核となる年代の学生に情報活用の授業をする。何を教えればよいのだろう。教えるなんてとてもできない
何があっても動じない,知的体力をつけてもらうように務めようか。。