人様の知恵を借りようとするのもいつものことだ。。
今回は須藤泰著,「不自然な宇宙」(ブルーバックス)を読んでいる。
その中で 興味のある 部分があったので考えてみたい。
物理はどうして数学で 記述できるのかという問いかけである。 そういえば,物理を 数学で記述できるわけがわからず, 気味が悪いので?物理を止めたと言う 話を聞いたことがある。
私も常々学生諸氏に,「 物理というのは自然現象を数学という言語で記述することだ」と言っているのだが ではなぜそれが可能かと言われるとちょっと答えに窮する。
須藤泰さんは 3つ場合に分けている。 簡単に紹介すると,
穏健派
世界が数学で記述できるのは, 物理屋の思い込みで うまく記述できる部分を記述しているに過ぎない。
中道派
確かに今はうまくできる部分を記述しているに過ぎないけど,そのうち もっと色々なことが,数学で記述できるようになるだろう。 それは完全な技術ではなく近似的なものかもしれないのだけど。
過激派
世の中は単に数学で記述出来るように見えるだけでなく,厳密に数学に従っている。
須藤氏曰く,多くの物理屋は中道派の考えではないか。 私もそうかなと思う。
今,素粒子の振る舞いは標準理論という数学的体系で記述できる。でもこれは,今観測できていることをたまたま数学という道具で記述できただけかもしれない。 もちろん自然現象する 記述するためにその言葉である数学そのものが発展してきた。 自然を記述するために人が数学を作り上げてきたことも確かだ。
この先例えば宇宙の究極の あり方が 数学で記述できるだろうか。 それは分からないのだけど多くの物理学者は,できるのではないかと思っている,そんな気がする。
「知性」はどうだろう。 知性を数学で記述できるのだろうか。 もし知性が 今流行っているような ニューラルネットワークで構成されるものであれば,そのうち それを記述する体系ができるような気がする。 しかし今のところ 分からないというのが,本当のところではないだろうか。
では,「意識」はどうだろう。 意識を 数学で記述できるかどうか,これは さっぱり分からない。 もちろん過激派物理屋は,意識も 数学で記述できる日が来ると考えているのだろう。 しかし,数学による記述を,客観的な記述と言い換えると, 主体と客体を分離できない意識が数学で記述できるか 甚だ疑問である。少なくとも今私たちが知っている数学と呼ばれるものとは, 別の体系の何かが必要ではないだろうか。
人の脳というのは,不思議なものだ。
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