三井誠氏の「ルポ 人は科学が苦手 アメリカ科学不信の現場から」を読んだ。感じたことを羅列してみる。
人の行動を支配するのは,主観や抽象的な考え方 だということを再認識している。人は,まず 主観によって自分の行動を決める。 客観的,論理的な思考によって行動することの方が希だろう。 ほとんどないと言っても良いのではないか。ユヴァル・ノア・ハラリ氏によると,抽象的な概念を共有し,多くの人がそのもとに行動することが,人類の人類たる所以であり繁栄の礎ということだが,それは諸刃の刃でもある。
この本のタイトルにある「人は科学が苦手」というのはこの主観基づいた行動と,科学的・論理的な行動の相反を意味している。ハラリ氏によると,人が抽象的概念の共有という能力を身につけたのは,約7万年前ということである。科学の歴史はせいぜい千年だろう。現代人に科学的な論理に基づいて行動をせよというのは,そもそも無理なことなのか。
興味深い記述があった。エール大学のカハン博士の研究ということだ。
地球温暖化が 人間の活動によるかどうかについて 科学的な知識と支持者政党の関係を調べた結果である。科学的知識が少ない層では支持政党による差はないのだが,科学的な知識が多ければ多いほど民主党支持か共和党支持によってがはっきり分かれるということだ。もちろん民主党支持者の方が地球温暖化は人類の活動の影響だと考えている。共和党は逆である。
もう一つ,いわゆる進化論を信じるかどうかについて,信仰心が平均以下のグループと平均以上のグループを比べた結果があった。キリスト教では世界は約6000年前に神によって創造されたのであり,それ以前の歴史はない。これも科学的な知識が 少ない場合は,信仰心の大小において差はないのだが,科学的な知識が多くなれば多くなるほど 信仰の有無によって進化論を信じるかどうかに大きな差が生じる。 信仰心が 平均以下のグループでは, 科学的な知識が豊富になると100%近い人が進化論を信じているのだが ,信仰心が平均以上のグループでは進化論を信じている人は20~30%程度だと言うことだ。
(2017年のギャラップ社の調査によると,進化論を信じている人は全米で2割程度とのことだ)
この意味するところは, 人は科学的な知識を、主観によって決めた主張を補強するために利用しているということだろう。客観的な事実を公平にみているのではなく,自分の主張にあった情報を選択している。科学者は,論理的な思考や客観的な事実 に基づいて行動を判断するように訓練されている。だがそれは,人類全体からみるとごく少数の希な集団だ。科学者はそのことを認識することが重要だ。
( 科学者が自分の行動を論理的な考察によって選んでいるか?それも 甚だ怪しいと私は思っているが。。)
科学コミュニケーションを考えるとき、「多くの場合に人は、主観的理由によって まず結論を決める, 論理的施行や科学的事実というのは後からそれを補強するために用いる。」ということを 考慮しなければならない。科学的,論理的な説明をいくら行っても コミュニケーションは成り立たないだろう。
一所懸命科学を説明して分かってもらおうとするのは,科学者が陥りがちな間違いだ。 科学や論理はコミュニケーションの必要条件にはなっても,十分条件とはなり得ない。一方,主観はそれ自体で,意志決定の十分条件になり得る。トランプ大統領の誕生はそれを物語っている。
科学コミュニケーションをどのようにすればいいか? これはなかなか難しい。
この本に書かれていることは,相手が科学的な説明や論理を受け入れないときに,相手に反科学というレッテル貼ってはいけないということだ。これは科学対反科学という不毛な対立構造をつくる。
話し相手が 科学的な理解を受け入れない時,その 背後にある理由を考える必要がある。
例えば地球温暖化 が人の影響ということを信じない人は,企業や経済活動が 規制されることが本当の反対理由であって, 科学的に信じないということを,本当の理由の煙幕として使っているということだ(テキサス州立大ヘイホー博士)。
私が時々出くわす放射線に対する考え方も似たよう状況があると思う。 放射線の人体に対する影響について,科学的な考え方を説明しても それを受け入れることが できない方は多い。その人たちは 結局のところ,原子力や放射線をとりまく状況や政策について不満を持ってたり,放射線という言葉だけで拒否反応を示していると感じることがある。
相手は 本当は何を望んでいるのか? 共有し共感できる ものは何か?そこに思いを巡らすことが必要だろう。
科学的な事実をひたすら論理的に説明だけでは,コミュニケーションにはならない。。
(というのは簡単だけどね。。。~)
(というのは簡単だけどね。。。~)
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