2019年8月6日火曜日

選挙雑感

最近コミュニケーションや平和のことをのことを考えることがなんどかあった。(これこれなど)
つくづく思うのは人は,主観で行動を決めるということだ。集団の場合も間主観の共有によってその行動を決めるということだろう。  

 民主主義の 基本となる選挙 についても同じことが言える。ユヴァル・ノア・ハラリは 選挙というのは 公衆の意見を集約するのではなく,その雰囲気を 集約するものであると言っている(ホモ・デウスだったかな)最近特にその傾向を強く感じるのは私だけだろうか?
 しかし,これは公衆が変わったのではない。 人はそもそも 主観や感情で行動を決める動物だ。 選挙で票を得ようと思ったら,民衆の 感情に訴える方が早く効果的なのだ。 しかし多くの為政者は,多分それは分かりつつも,主に政策についての論理的な説明によって支持を得ようとしていた。 ところがここ数年,特に前回のアメリカ大統領選挙以来顕著になったと思うのだが, 民衆の感情に訴えて支持を得る手法を用いる為政者が増えてきたと思う。 そしてかなりの確率で成功している。
  
 これは,民主主義の根幹をなす選挙について, 大きな疑問が投げかけられていることを意味しているのではないか?
 
 民主主義は, 正しいから 現代の 政治手法の主流となっているのではない(そもそも正しいとは何か自明ではない)。 歴史の紆余曲折のを通じ,人類社会を発展させる手法として生き残ってきたということだろう。 民主主義という手法がこの先も生き残るのか?そうだとしても今のままの方法で良いのか?
大きな課題を投げられていると思う。

2019年7月22日月曜日

科学コミュニケーションIII その参加者


科学コミュニケーションの当事者

前々回は科学コミュニケーションとは何かについて
前回はその特徴について考えました。
今回は,科学コミュニケーションの参加する当事者について考えます。


メディアも当事者ですが,それにについては,後で議論します。)

 科学コミュニケーションに関与する当事者と当事者間のコミュニケーションについて表にまとめました。現代の事例から学ぶ サイエンスコミュニケーション ISBN 978-4-7664-2203-0 p14を参考,筆者による改変)
 当事者はもっと詳細な分け方も可能ですが,ここでは科学者と公衆のみを考えています。政策作成者は,コミュニケーションの手法としては,科学者と類似の方法をとることができると言う意味で,同様のカテゴリーとしました。


表:科学コミュニケーションの当事者と当事者間で行うコミュニケーション



実施者


科学者
肯定的
公衆
無関心な
公衆
否定的
公衆
一般的な
公衆
対象
科学者
委員会


公聴会
ネガティブ
キャンペーン

肯定的公衆
講演会
市民討論会
サイエンスカフェ
パブコメ
(アンケート)
講演会

ネガティブ
キャンペーン

無関心な公衆
(マスメディアを通じた宣伝)

ネガティブ
キャンペーン

否定的公衆
公聴会




一般的な公衆
講演会
市民討論会
サイエンスカフェ
パブコメ
(アンケート)
博物館


ネガティブ
キャンペーン


 表のなかで,問題となるのが空白の部分です。一般に公衆がコミュニケーションの実施側になることはあまりありませんが,科学者側からみた場合,無関心な公衆に対する部分が課題です。ここにアプローチする方法として,マスメディアを通じた宣伝が考えられますが,莫大な費用がかかることからこれまでに行われたことはありません。また,前例がないことから,その是非自体も議論となると考えられます。人口に占める割合としては,無関心な公衆が多数を占めることは十分に予想されるため,この点は大きな課題です。また否定的公衆に対して行えることが少ないことも問題です。


メディアについて

 メディアはコミュニケーションの実施者と対象の間で両者の間を取り持つ役を果たします。しがって表の中に直接出ていませんが,情報を介在するものとして登場します。メディアとしては,マスメディアが代表的ですが,コミュニケーターや博物館学芸員もこの役を担います。またインターネットの発達はコミュニケーションの手法に大きな変化を起こしています。



マスメディア

 テレビ,ラジオ,新聞,出版社などが代表的な媒体ですが,通信社のように情報をテレビ局や新聞社のような媒体に提供するメディアもあります。マスメディアによるコミュニケーションは,基本的に情報の提供者からの一方通行です。



 マスメディアがコミュニケーションに関わる目的は何でしょうか? これは,メディアが報道するニュースの選択に関わります。マスメディアの公衆に対する影響の大きさを考えると、大きな論点です。



マスメディア自身が情報発信を行う場合

 マスメディアは基本的に営利企業であり、配信した情報が公衆の興味と合致し、受け入れられることが重要です。したがって情報もその指針によって選択されます。日常的でない出来事や,流行にそった情報などです。この場合,マスメディアが独自の考え方で情報を選択し伝えるため,その意図は情報を伝えるメディアの意向を反映します。 伝える内容を専門的なトレーニングを受けていないものが作成する場合も多く、特に科学コミュニケーションの場合,情報の正確性や客観性が問題となることがあります。



マスメディアが専門家と公衆の間を仲介する場合。

 科学者などがコミュニケーションを行う際に,メディアを通じて行うことがあります。記者会見が代表的な例でしょう。 情報の発信者は,ある目的をもってメディアに伝えます。(目的を明確にすることは重要な前提です。これが無いと会見を行っても、メディアから無視されてしまいます。) この場合も、情報の発信を行うかどうかも含めて、情報発信者の主体はメディアとなることに注意しなければなりません。 メディアに対して発信者側の意図が正しく伝わるか,伝わったとしても意図の通りに報道されるかは,報道されるまで分かりません。
  情報発信側は,この事を十分に考慮し、定期的な勉強会を通じた情報提供や,メディアトレーニングの実施、メディアにとって発信しやすい内容の選択など、その目的を達成するための方策を検討し、実施する必要があります。

 マスメディアの場合、情報の発信者がメディアであっても、科学者であっても、最終的な情報発信には、メディアによる解釈やその意向が介入します。誰が何の目的でコミュニケーションを図ろうとしているのか?その目的を反映したものなっているのかが,曖昧になることがあります。メディアによるコミュニケーションには,その事案に応じた考察が必要です。

コミュニケーター
 コミュニケーターは,専門家と公衆の間に入り,情報の内容を理解しそれを伝えることを役割とします。 専門職としてのコミュニケーターがあるということではなく,イベントの企画者,博物館学芸員などがその役割を担うことが大半です。また,マスメディアの中にもその役目を担うものがいる場合があります。

 科学コミュニケーターは,コミュニケーションの技術や知識に疎い科学者と,科学的素養が十分ではない一般公衆の間で,コミュニケーションをとりもち,その目的を達成させることが役割です。そのため,科学に対する理解(必ずしも専門知識を意味しない)と,コミュニケーション技術を兼ね備える必要があります。 また,サイエンスカフェなどのイベントを開催する場合には,その企画立案から実施までを取り仕切ることもあり,科学コミュニケーション全般にかかる幅広い知識が必要とされます。

  科学コミュニケーターの場合も,メディアと同様に,コミュニケーター自身が情報発信する場合と,専門家と公衆の間を仲介する場合があります。

 科学コミュニケーター自身が情報発信する場合,その目的は科学的知識の普及,科学の社会への理解促進など,科学と社会の関係促進をその理念とする場合が多く,経済的な利潤を追求する場面は少ないでしょう。 その一方で,サイエンスカフェなどの具体的なイベントを行う場合,「科学の社会への理解」などの目的が抽象的にすぎ,イベントの目的や対象が曖昧になってしまわないように,注意しなければいけません。

 科学コミュニケータが科学者と公衆の仲介を行う場合は,マスメディアの場合と異なり,科学者の意図や目的は比較的反映されやすいでしょう。一方,専門的内容や情報の正確性にこだわる傾向のある科学者・専門家と入念に打合せを行い,当初の目的を達成するべく,事前の打合せや,イベントの構成を行う必要があります。そこにコミュニケーターとしての技能があると言っても良いと思います。

インターネット
 インターネット自体は純粋なメディアであり,情報の発信者にはならないという意味でマスメディアやコミュニケーターとは一線を画します。組織の大小や地域に制限されずに情報を発信できるメディアであり,その方法もweb,SNSなど多様な広がりをもっています。大きな影響をもつメディアとなっている反面,フェイクニュースや炎上という言葉に代表されるように,情報の真偽,過剰な反響などが問題になってきています。




2019年7月20日土曜日

科学コミュニケーションーII 科学とか科学者とか


 前回,科学コミュニケーションについて考えてみました

そこでは,
コミュニケーションとは
「目的をもって他人に対して行う情報の授受」
科学コミュニケーションは,
「科学者または科学が関与するコミュニケーション」
と考えました。
コミュニケーションというのは,誰かが特定の目的をもって特定の対象に対して行う政策の一種。科学コミュニケーションというのは,話題が科学に関することだったり,当事者が科学者だったりする場合のコミュニケーションという意味です。

今回は「科学」をテーマとするときの特徴を考えたいと思います。
内容的には先日の人は科学が苦手?(読書感想文)に書いたこととかなり重なります。

 科学コミュニケーションの重要さが話題になる背景には,科学の発展によって,科学の社会への影響が大きくなったことがあります。そのときに,科学や科学者が関与するコミュニケーションに特有の課題が浮き彫りになるのは必然ではないでしょうか。
 科学に限りませんが,ある分野にはその分野の手法(作法といっても良いかもしれません)があります。その分野の専門家になるためには専門のトレーニングが必要です。科学の場合,物事をできる限り客観的に考察し評価することが特徴です。これを行うようにトレーニンされてきた科学者は,その思考や行動にも客観的な指標を重視する傾向があります。一方で,科学者以外の人の行動基準は,主観が大きな比重をしめる傾向があります。このことが,科学コミュニケーションを難しくしている理由の一つではないでしょうか。(科学者が客観的な判断で行動するかという事も甚だ疑問ですが,少なくともそのような振りをします。) 科学者というのは世間一般からみると,ごく一部の少数です。科学者自身が,これを認識することがまず重要だと思います。

科学者や科学の特徴とそれを踏まえた科学コミュニケーションを考えてみたいと思います。

科学と社会

 科学とは一言でいうと,「自然現象をできる限り客観的に記述する」ことだと思います。客観的に記述する言語は究極的には数学です。
重要なことは,「客観的に記述する」行為には,社会的意義を考えることは含まれていないことです。科学自体はその意義や意味には無関係です。それを考えるのは,社会科学です。(社会科学には,人文,政治,宗教なども広く含むと考えてください。)学問の分野を分けるというのは好ましくありませんし,科学の意義を考える学問分野はすでに存在します。しかし,科学の本質を考えたときに,その中に科学の意義の考察は含まれないということは言えのではないでしょうか。

 科学者も同様です。科学者になるためのトレーニングは,物事を客観的に考察し評価するための訓練がそのほとんどです。科学倫理など,その意味考えることも特に最近は重要視されてきましたが,どちらかというと派生的なものです。
 科学者にも研究の意義や社会に与える重要性を考え,行動している人は,たくさんいます。しかし,その行動は科学を探求する研究者というよりも,社会を構成するもの一人としての行動ではないでしょうか。つまり,科学の意義や社会的意義を考えるとき,その人は科学者というよりも,一般社会の構成員としての立場で活動していると思います。問題は,にもかかわらずそれを科学者の作法で行っていること,だと思います。

科学コミュニケーションの基本的な考え方

 まず,科学者自身が,科学者になるためにうけてきたトレーニングは非常に特殊なものであること,科学的(客観的)なことを行動原理にすることは人の活動そしては一般的でないこと,をしっかりと認識することだが大切だと思います。
人類(ホモ・サピエンス)20万年の歴史のなかで,科学的な思考が本格的に芽生えてから,たかだか数百年です。人は主観で行動する動物なのです。
 コミュニケーションを通じてなにか目的を達成しようとするとき,科学的・客観的な情報提供は必要条件になることはあっても,決して十分条件にはなりません。逆に,主観は科学的な裏付けがなくても人行動の十分条件になり得ることは,歴史をみればあきらかです。
 科学コミュニケーションも例外ではありません。科学コミュニケーションに関する文献をみると,いろいろなカテゴリー分けやモデル化が書かれています。それはすべて,科学や科学者の特徴を考慮し,コミュニケーションによって目的を達成するための,戦術であり戦略ということだと思います。

次回は科学コミュニケーションの参加者について考えてみます。



2019年7月16日火曜日

科学コミュニケーションI その定義について

ブログのタイトル変えました。意味はありません。
スマートスピーカーに一番良く話しかける言葉です。カップラーメンには一番便利ですね。

この4月から,科学コミュニケーター養成プログラムを有志と始めました。ほぼ2週間おきに受講生諸氏といろいろ話しています。受講生の皆さんには,サイエンスカフェの企画から実施までを実習としてやってもらっています。受講生のみなさんにはいつも,「目的と趣旨とはっきりさせてください。迷ったら,もとに戻る。この授業の場合は,科学コミュニケーションですね。」と言っています。でも科学コミュニケーションって何かと問われると,一言で答えることができません。今更ながら考えてみました。

コミュニケーションって何?
 コミュニケーションとはなんでしょうか? 狭い意味では,情報の伝達やりとりですが,わざわざコミュニケーションと言っています。そのときは,ある人から他の人への一方的な情報伝達ではなく,他方からの反応を含んでいます。
AさんからBさんへ何かを伝えたとき,Bさんが何か反応を返します。好意かもしれまん。反発かもしれません,情動的なこともあるでしょう。コミュニケーションというときは,このような,何かのやり取りを想定しています。
コミュニケーションには必ず目的があります。例えば,AさんはBさんと友達になりたい,服従させたい,何か情報を得たい(得る目的は別にあるはずですが)などです。意識していなくても何か目的があります。

結局,コミュニケーションというのは,「ある人やグループが目的を持って他人や他グループに対して行う情報の授受」ではないでしょうか。情報の授受とあえて書いたのは,物理的な暴力ではないと言う意味です。

このコミュニケーションの考え方は,クラウゼヴィッツの「戦争論」に通じるところがあります。戦争論では,戦争を「政策の道具,交渉の延長線上にある」と捉えています。コミュニケーションも同様に考えることができます。暴力による交渉が戦争であり,情報の授受による交渉がコミュニケーションと言うわけです。コミュニケーションが,情報の一方的伝達ではなりたたないことが自明になったのではないでしょうか。科学コミュニケーションに関していうと,一生懸命理論を説明するだけでは不十分だということです。このことをはっきりするさせるのが,わざわざ「コミュニケーションとは何か」考えた理由です。
政策交渉について,相手との関係(横軸)と方法(縦軸)の2次元上に表したものです。
コミュニケーションも戦争も政策交渉の道具という意味では同じですが,この図の対極にあります。



科学コミュニケーションとは
コミュニケーションを,「目的をもって他人に対して行う情報の授受」,と考えると,科学コミュニケーションは,「科学者または科学が関与するコミュニケーション」と考えることができます。とっても簡単な話になりました。

 通常,科学コミュニケ−ションというとき,科学者が情報の送り手,公衆が受け手の場合を考える場合が多いのですが,いつもそうとは限りません。情報の受け手が科学者の場合もあります。公衆と言っても,立場,考え方,科学的知識の有無は千差万別です。科学(に限らず)コミュニケーションを行うときは,相手(ターゲット)を想定することが重要です。 情報の送り手,受け手も,どちらがどちらと決まっているとは限りません。公衆から科学者へ向けたコミュニケーションや,どちらからどちらとは言えない場合もあるのです。(これについてはまた別の機会に考えます。)

科学コミュニケーションというのは,
1)科学者から他の集団に向けた,特定の目的をもった情報の授受
   (科学者による講演やサイエンスカフェなどのイベントはこれ。)
もっと広義には,
2)科学者を含む集団間の,特定の目的をもった情報の授受
   (科学者間や科学者と公衆の討論会などはこちら)
ということでしょう。一般には1)を指す場合が多いと思います。

 科学コミュニケーションというと,科学者と一般の人との対話とか,啓蒙とか,なんとなく分かったような分からない言い方をすることが多いのですが,このように考えると,何をしようとしているのかスッキリすると思うのですがいかがでしょう。

ただし,科学コミュニケーションは,とりあつかう題材が科学であること,科学者が介在することによる,特有の難しさや課題があります。
これを考えるためには,まず,科学の特徴とはなにか,それを研究する科学者とはどんな人かを考察する必要があるように思えます。

科学コミュニケーターとは
ここまでの話にはか科学コミュニケーターは出てきません。科学コミュニケーターは,科学者でも,公衆でもなく,その中間にいます。メディアといえばよいでしょうか。
これについては,別の機会に考えてみたいとおもいます。

次回は,科学コミュニケーションはに科学が介在すること特有の課題を考えます。




2019年6月20日木曜日

学校・教育総合展(EDIX)

東京ビッグサイトで開催されている,学校・教育総合展に行ってきた。展示を見る時間はなく,講演を2件聞いたのだが,その感想を記しておく(あまり肯定的な感想ではない)

最初は,「大学のICT利活用の現状、課題」パネルディスカッションを拝聴。パネルディスカッションといっても,パネリストと司会者合わせて6名の方のミニ講演だった。皆さん,大学ICT推進協議会(AXIES)の要職を務められている。話は,CIO(最高情報責任者)という役目の理解浸透,AI・データサイエンス教育,クラウド技術活用,ICT活用,ICT技術の動向,研究データ管理それぞれについて,AXIESでの議論の様子だった。
その中で特に気になったのは,AI・データサイエンス教育とICT活用の2つ。

最近政府がAI・データサイエンス教育を文系理系とはず小中高大すべての課程で必須化するという話を受けての対応がテーマだ。政府の方針はその中身が課題だが,AI・データサイエンスが教育の非常に重要なテーマであることは間違いないだろう。
AXIESではこの指針をうけて,メディア授業の議論をしているという話。リモート授業とかMOOC(録画授業のネット配信をつかったコース)の活用などだ。その場合授業が個々の教育機関にはとどまらないので,学生が大学という組織をこえて,何を履修し何を見につけたかが重要になる。学生が履修した内容のバッチを獲得して身につけるというイメージで語っていた。
しかし,AI・データサイエンス教育というのはこんな話だろうか,最近ICTについて書いたがAIとかデータサイエンス教育の課題は,将来ICT技術と人がどのように共存するかだろう。授業のメディア化や多様化もあるが,これを主としてAI・データサイエンス教育を語っているとしたら課題をあまりにも矮小化していないだろうか?

ICTの活用についても似たような危惧を抱いた。講演者の方曰く,「ICTに対する理解はすすんでいる。」それは良いが,その後に「理解が進まないと困る」と付け加えた。どういう意味だろう。「困る」だれがどう困る?もちろん教育が不十分だったら将来の人類が困るのだが,そのような意味で「困る」と言ったようには聞こえなかった。ICTを普及させること自体が目的なので,理解が進まないと困ると聞こえた。それで良いのか??
もうひとつBYOD(Bring Your Own Device)にも触れていた。大学生皆がPCをもって授業を受けるという取り組みだ。そのなかでBYODの目的について,「学生全員が,pcについて詳しくなる」というようなことを言われた。あれ?あれ?だ。pcの技術なんて,10年たてば全く変わっている。pc自体に詳しくなるのは,その必要がある一部の学生だけでよい。大多数の学生とって重要なのは,pcを有効に活用した授業をうけることができる,将来のAI社会を見据えた教育を受けることができることだろう。う〜む。。。だ

パネルディスカッションの後は,
マイクロソフトが考える Future Ready Skill―21世紀を生き抜く力 AIロボティクスを使いこなし, 社会で活躍するための'未来のスキル'
いう講演を聴いた。
マイクロソフトがこの題目で何を語るのか,数百人入る会場は満席だった。
AIの発展について,数年後には多くのことが機械でできるということを実例を上げていた。ICTの最前線を担う会社の方の話はそれなりの説得力がある。
気になったのは,AIが人から仕事を奪うというこについてのコメントだった。
人間が関わるところ,感情を読むとかそような部分をコンピュータが苦手な例としてあげていた。本当だろうか。人が会話するとき相手の口調や表情から相手の感情を推し量る。Lie Spottingというのはそれによって嘘を見抜く技術だ。これ,画像認識とか音声認識を使ったAIには最も得意な分野ではないだろうか?
私の意見はAIにできないことを今の技術から想定することは危険,だ。。
もう一つ講演者の方は,AIが人のできることの多くをできるようになるが,同時に多くの新しい仕事を生み出すといわれた。具体例がなかったので詳細は不明だが,本当だろうか。楽観的すぎないだろうか。

私は,AIが人間のできることの大半を人間を超えて行う能力を身につけることは想定して置かなければならないと思う。その上AIとどう向き合うかが,今から考えて置くべきだ。
マイクロソフトのような世界最先端のICT技術をもつ会社の方がの,言い方としては,安易にすぎると思ったのだが,杞憂だろうか。

AIやデータサイエンスの将来と人の関わりを考えた教育について,もっと突っ込んだ真剣な議論を期待していたというのだ,正直なところだ。




2019年6月4日火曜日

ICT活用って?

情報通信技術(ICT)の 教育への活用についてちょっとまた考えている。
今年(2019年)2月に 大学の教育における必携 PC の活用についてシンポジウムを行った。
私が主旨説明で言ったことは,「 ICTの利用を目的にしてはいけない。目的はあくまで 教育に資するためのICT活用 である。」とだった。
一方でちょっと別なことも言った。 今の大学教育を受けている年代が ,社会の中枢を担う年代になる数十年後, AI に代表されるICTの社会への影響は 予測できないほど大きなものになっている可能性がある。そのような時代の中核を担うすべての学生に,ICTに 慣れ親しんでもらうことが必要ではないか。何ができて 何ができない。どのような可能性がある。 そのようなことを実体験を通じて実感してもらうことが重要ではないか。 そんな話をした。
 これはICTを使うこと自体が目的ではないという趣旨とは矛盾している。授業を担当している教員にの一人として,教育を充実させるための活用は常に考えているが,それにも増して学生にICTを経験してもらうこと自体の重要性が高くなってきている。そんな気がする。

2019年6月1日土曜日

人は科学が苦手?(読書感想文)

 三井誠氏の「ルポ 人は科学が苦手 アメリカ科学不信の現場から」を読んだ。感じたことを羅列してみる。

 人の行動を支配するのは,主観や抽象的な考え方 だということを再認識している。人は,まず 主観によって自分の行動を決める。 客観的,論理的な思考によって行動することの方が希だろう。 ほとんどないと言っても良いのではないか。ユヴァル・ノア・ハラリ氏によると,抽象的な概念を共有し,多くの人がそのもとに行動することが,人類の人類たる所以であり繁栄の礎ということだが,それは諸刃の刃でもある。
 この本のタイトルにある「人は科学が苦手」というのはこの主観基づいた行動と,科学的・論理的な行動の相反を意味している。ハラリ氏によると,人が抽象的概念の共有という能力を身につけたのは,約7万年前ということである。科学の歴史はせいぜい千年だろう。現代人に科学的な論理に基づいて行動をせよというのは,そもそも無理なことなのか。

 興味深い記述があった。エール大学のカハン博士の研究ということだ。
地球温暖化が 人間の活動によるかどうかについて 科学的な知識と支持者政党の関係を調べた結果である。科学的知識が少ない層では支持政党による差はないのだが,科学的な知識が多ければ多いほど民主党支持か共和党支持によってがはっきり分かれるということだ。もちろん民主党支持者の方が地球温暖化は人類の活動の影響だと考えている。共和党は逆である。
 もう一つ,いわゆる進化論を信じるかどうかについて,信仰心が平均以下のグループと平均以上のグループを比べた結果があった。キリスト教では世界は約6000年前に神によって創造されたのであり,それ以前の歴史はない。これも科学的な知識が 少ない場合は,信仰心の大小において差はないのだが,科学的な知識が多くなれば多くなるほど 信仰の有無によって進化論を信じるかどうかに大きな差が生じる。 信仰心が 平均以下のグループでは, 科学的な知識が豊富になると100%近い人が進化論を信じているのだが ,信仰心が平均以上のグループでは進化論を信じている人は20~30%程度だと言うことだ。
(2017年のギャラップ社の調査によると,進化論を信じている人は全米で2割程度とのことだ) 

 この意味するところは, 人は科学的な知識を、主観によって決めた主張を補強するために利用しているということだろう。客観的な事実を公平にみているのではなく,自分の主張にあった情報を選択している。科学者は,論理的な思考や客観的な事実 に基づいて行動を判断するように訓練されている。だがそれは,人類全体からみるとごく少数の希な集団だ。科学者はそのことを認識することが重要だ。
( 科学者が自分の行動を論理的な考察によって選んでいるか?それも 甚だ怪しいと私は思っているが。。)

科学コミュニケーションを考えるとき、「多くの場合に人は、主観的理由によって まず結論を決める, 論理的施行や科学的事実というのは後からそれを補強するために用いる。」ということを 考慮しなければならない。科学的,論理的な説明をいくら行っても コミュニケーションは成り立たないだろう。
一所懸命科学を説明して分かってもらおうとするのは,科学者が陥りがちな間違いだ。 科学や論理はコミュニケーションの必要条件にはなっても,十分条件とはなり得ない。一方,主観はそれ自体で,意志決定の十分条件になり得る。トランプ大統領の誕生はそれを物語っている。

 科学コミュニケーションをどのようにすればいいか? これはなかなか難しい。
この本に書かれていることは,相手が科学的な説明や論理を受け入れないときに,相手に反科学というレッテル貼ってはいけないということだ。これは科学対反科学という不毛な対立構造をつくる。

 話し相手が 科学的な理解を受け入れない時,その 背後にある理由を考える必要がある。
例えば地球温暖化 が人の影響ということを信じない人は,企業や経済活動が 規制されることが本当の反対理由であって, 科学的に信じないということを,本当の理由の煙幕として使っているということだ(テキサス州立大ヘイホー博士)。
 私が時々出くわす放射線に対する考え方も似たよう状況があると思う。 放射線の人体に対する影響について,科学的な考え方を説明しても それを受け入れることが できない方は多い。その人たちは 結局のところ,原子力や放射線をとりまく状況や政策について不満を持ってたり,放射線という言葉だけで拒否反応を示していると感じることがある。 

 相手は 本当は何を望んでいるのか?  共有し共感できる ものは何か?そこに思いを巡らすことが必要だろう。
科学的な事実をひたすら論理的に説明だけでは,コミュニケーションにはならない。。
(というのは簡単だけどね。。。~)

2019年4月12日金曜日

サイエンスカフェあわてて準備(物理と数学)

サイエンスカフェが迫ってきた。いつものように?あわてて勉強している。いつものことだが,一般の方からの容赦のない難しい質問にどう答えればよいのか,考えても妙案が浮かばない。
人様の知恵を借りようとするのもいつものことだ。。

今回は須藤泰著,「不自然な宇宙」(ブルーバックス)を読んでいる。
その中で 興味のある 部分があったので考えてみたい。
 
 物理はどうして数学で 記述できるのかという問いかけである。 そういえば,物理を 数学で記述できるわけがわからず, 気味が悪いので?物理を止めたと言う 話を聞いたことがある。
 私も常々学生諸氏に,「 物理というのは自然現象を数学という言語で記述することだ」と言っているのだが ではなぜそれが可能かと言われるとちょっと答えに窮する。

須藤泰さんは 3つ場合に分けている。 簡単に紹介すると,
穏健派
  世界が数学で記述できるのは, 物理屋の思い込みで うまく記述できる部分を記述しているに過ぎない。
中道派
  確かに今はうまくできる部分を記述しているに過ぎないけど,そのうち もっと色々なことが,数学で記述できるようになるだろう。 それは完全な技術ではなく近似的なものかもしれないのだけど。
過激派
  世の中は単に数学で記述出来るように見えるだけでなく,厳密に数学に従っている。

須藤氏曰く,多くの物理屋は中道派の考えではないか。 私もそうかなと思う。
 今,素粒子の振る舞いは標準理論という数学的体系で記述できる。でもこれは,今観測できていることをたまたま数学という道具で記述できただけかもしれない。 もちろん自然現象する 記述するためにその言葉である数学そのものが発展してきた。 自然を記述するために人が数学を作り上げてきたことも確かだ。
この先例えば宇宙の究極の あり方が 数学で記述できるだろうか。 それは分からないのだけど多くの物理学者は,できるのではないかと思っている,そんな気がする。

「知性」はどうだろう。 知性を数学で記述できるのだろうか。 もし知性が 今流行っているような ニューラルネットワークで構成されるものであれば,そのうち それを記述する体系ができるような気がする。 しかし今のところ 分からないというのが,本当のところではないだろうか。

では,「意識」はどうだろう。 意識を 数学で記述できるかどうか,これは さっぱり分からない。 もちろん過激派物理屋は,意識も 数学で記述できる日が来ると考えているのだろう。 しかし,数学による記述を,客観的な記述と言い換えると, 主体と客体を分離できない意識が数学で記述できるか 甚だ疑問である。少なくとも今私たちが知っている数学と呼ばれるものとは, 別の体系の何かが必要ではないだろうか。

人の脳というのは,不思議なものだ。

2019年4月6日土曜日

授業がはじまる

来週から授業が始まる。今年は,月曜日の最初の授業で1年生にあう。つまり彼ら彼女らの大学で始めての授業となるわけだ。科目は情報活用演習,物理ではない。もちろん物理のための情報活用が主題で,それをやるつもりだが,,

 Facebookには何度か書いたと思うけど, Yuval Noah Harari氏の本をよんでい。サピエンス全史,ホモデウス。3冊目の21 Lessons for the 21st Centuryはまだ日本語が出ていないようだ。
Harari氏曰く,「今と昔の大きな違いは,数十年後の世界がどのようになっているか想像できないこと」確かにそうだろう。

 私が大学生,大学院生だったころ,インターネットがこんなに世の中を変えるとは思っていなかった。しかし,パソコンらしきものはあったし,コンピュータはネットに繋がり始めていた。その発達は(少なくとも私の)想像を大きく超えるが,30~40年前と今で社会の仕組みが全く変わったと言うわけではない。

 今から30年~40年後はどうだろう。
 昨年ある講演会で高校生が,「自分が大人になったとき,仕事はほとんどAIがやってしまうのではないか。」と質問していた。講演者は,「そんなに心配することはない。人にしかできないことは沢山ある。」と答えていたが,果たしてそうだろうか?

 AIのできることは我々の想像を遙かに超えると思う。AlphaGoが人間に勝ったのはほんの数年前だが,その後の進展もすさまじい。

Wikipediaによると,後継のAlphaGo Zeroは自分自身で対極を繰り返し,ルールを覚えて40時間後にそれまで最強だったAlphaGo Master(人よりは遙かに強い)を圧倒した。さらに後継のAlphaZeroは8時間でAlphaGo Zeroを上回ったそうだ

 AIは決して単独の人工知能ではない。あらゆるデータは世界のどこかに蓄積されつづけ,ネットワークでリンクされる。人の体にICチップを埋め込むなんで今でもやろうと思えばできる。

AI,ビックデータ,バイオテクノロジー,,,これらすべてが一体となって次世代の技術革新を生み出す。

数十年後,人でなければできないことはどれくらい残っているのだろう?
杞憂にすぎないのか,本当なのか?それさえも分からない。

「数十年後の社会がどうなっているか誰も分からない」ことは正しいと言えるのではないか。

さて,来週の月曜日,その数十年後に社会の中核となる年代の学生に情報活用の授業をする。何を教えればよいのだろう。教えるなんてとてもできない
何があっても動じない,知的体力をつけてもらうように務めようか。。

2019年3月24日日曜日

北京に行ってきた(お金支払い事情)




中国の研究者との共同研究のために、北京にある、中国科学院効能物理研究所にいってきた。最近、年に数回訪問しているが、昨年7月以来となった。
 滞在したホテルから研究所まで、歩るくと30分少しかかるが、今回もシェア自転車。モバイクを使った。
街のいたるところにこのようなオレンジのの自転車がおいてある。それぞれの自転車にはGPSがついていてアプリ上に場所がしめされる。アプリでQRコードを読み込めば
自動的に解錠。使ったあとは、鍵をかければ、アプリに利用時間や乗った距離が表示される。30分1元(約16円)と料金も格安だ。

モバイクのアプリ。自転車の
場所が地図上に示される
モバイクのアプリ画面は、左のような感じ、オレンジの丸が自転車のある場所。ロック解除をタップすると、カメラが起動してQRコード読むことができる。


ところが、このシェア自転車。中国であまりに急速に広まったため、経営が怪しくなった業者もいるようだ。今回、このオレンジの自転車は多く見かけたが、以前同じようにあった黄色い方はほとんど見なかった。オレンジの方(モバイク)は、日本でも営業していたが、撤退するという話だ。アプリの認証は携帯のSMSをつかって行うのだが、日本から撤退するせいだろうか、日本の携帯番号にはメッセージが来なかった。困ったなとおもっいると、中国のメジャーSNS(LINEみないなもの)WeChat(微信)のアカウントをつかって認証できて、事なきをえた。中国ではLINEは使えないので中国の研究者との連絡用にWeChat のアカウントを持っていたのが役に立った。

WeChat Payの支払い画面は
こ感じ
今回もう一つ、WeChat Pay(微信支付)を初めて使った。よく言われているように、中国ではキャッシュレスの支払いが普及していて、店頭で携帯のQRコードを見せて支払い済ますことが多い。WeChat Payはこれができる。ただし、WeChat Payにどうやってお金をいれるかが問題。中国の銀行に口座をもっていれば簡単だが、最近は短期滞在の外国人が現地の銀行に口座を開くのが難しくなっているらしい。(そもそも口座が必要あほど滞在していないし)現地で、WeChat を使っている中国人から自分のWeChat Payに送金してもらい、その人に現金で支払うという方法があるが、あまり良い方法とは思えない。実は日本で予めチャージする方法がある。羽田空港や成田空港にポケットチェンジというATMがあって、これを使うと現金から、各種電子マネーにチャージできる。そもそもは旅行で余った外貨を日本の電子マネー(SUICAとかedyとか)に入れることを考えているようだが、入金先にWeChat Payもある。そこで中国に行く前にこれをつかってWeChat Payに少し元をいれて行った。支払いにはこの画面をかざせばOK。お店がQRコードを表示してそれを自分のカメラで読む方法もあるが、これは今回試す機会がなかった。

中国のホテルから広島の居室のPCにつないで
いる。快適だった。
最後にすこしだけ、仕事の話も。左の写真の画面は中国い持っていたPCだが、画面に写っているのは、広島の居室のPCデスクトップ。今回不思議なことに、滞在したホテルのネットから、googleやyoutubeに接続できた。スピードも上々。そこで、北京からリモートデスクトップで、広島につなぎ、それを北京にもっていたPCのを切り替えながら仕事をしていた。ちょっと時間のかからるシミュレーションをしてたのでこれは、役に立った。彼の国のことなので、次にいったときはまた事情が変わっている可能性は高いが。。





2019年3月8日金曜日

自動文字起こしその2

数日前に投稿した、自動文字起こし。実際に試した。
音源は、記者会見の同時通訳。音質は良いが、同通なので、スムーズな喋りではない。
長さはちょうど60分。

まず、60分通して自動で文字起こし。通してと言っても、途中で途切れる事もある。
このやり方難点は、pc内部で再生ソフトー音声入力ソフトに音を渡すので、スピーカーからは聞こえないことだ。(windowsは同時に一つのデバイスしか再生できない。方法あるか要調査)
そこで波形を表示しながら再生するソフトで、音を目でモニターし、音が出ているのに、タイプが止まったらそこからやり直した。これが結構面倒。
結局、通して起こすのに2時間くらいかかったか?

その後、音を聞きながら、文章をチェック。
この時はホットキーで繰り返し再生できる、文字起しソフトを使った。
これに2ー3時間くらいかかったかな。

結局60分の文字起こしに4〜5時間。

普通、文字起こしの時間は(初心者でない人がやって) 60分で3〜6時間らしい。

多分、これまで人生で数回くらいの私がこの時間でできたのは上出来。

2019年3月5日火曜日

自動文字おこし



そういつもではないが、文字おこしをする事がある。かなり面倒な作業だ。音源が日本語ならまだしも、英語だともうお手上げ。
だが、最近音声入力の精度が非常に良くなっている事に気付いた。google docの音声入力の精度はかなりなものだ。しかし、これは基本マイクで話した言葉で入力する機能だ。文字おこしの場合、録音やビデオから音を入れなければならない。何とかならないかなっと思ったら、方法があった。パソコン内部で音声の出力と入力をつなぐ、virtual cableと言うソフトだ。(windowsの場合。Macはsound flowerと言うのがあるらしい) これを使うと、マイクやスピーカーのディバイスとして認識されるので、これを規定のデバイスにする。あとはプレヤーで音を出して、google docsのvoice typingをonにすればよい。ただし、音声出力と入力をパソコン内部でつないでいるので、スピーカーからは何も聞こえない。
試しにYoutubeを使ってやってみた。音源は英語。

画像が小さくて良くわからないが、ほぼ完璧。ほかの音源も試したが、普通の話言葉くらいのスピードなら追いつく。これは使えそうだ。




2019年2月26日火曜日

必携PC活用シンポジウム

先日(2019年2月21日)の、必携pc活用シンポジウムは、70名を超える方の出席で大変盛況だった
HPには、講演資料やオンラインで受け付けた質疑も掲載している。

講演で注目を集めたものの一つが、必携pcを使った教育データの収集と解析だった。
LMSとクリッカーを連動させて、学生の着席位置と活動、成績の関係を見ることができる。
教科書を電子書籍化すると、教科書をいつどのくらい読んでいるか、日常、授業中にかかわらず知る事ができる。
これらのデータから学生の成績を予想する試みも行われているとのこと。
この話、ビッグデータについての課題でもあると思う。
学生の成績予想は、科目に留まらず、留年予想、奨学金獲得予想、大学院進学予想など、直ぐに拡張できる。入試成績との比較も簡単だろう。
学生の行動のかなりの部分のデータが蓄積されるのだから、例えば自閉症スペクトラム疑いなど、疾患の可能性も把握できる。
勿論授業を行う教員にとっても同様だ。授業のやり方と学生の反応が具体的かつ明白に分かる。
このような膨大かつ重要なデータを誰が持ち、どの様に使うのか? とても重要な課題だろう。
もっとも、今でも、googleやfacebookなどは、膨大な個人情報を既に持っていて、我々はそれがどう使われているかを知ひらないだけだ。
教育ビッグデータを通じて、このような世界を実感し、さらにそれが進む将来の事を考える機会とする事ができるとしたら、pcの必携化は重要な手法を与えているのかもしれない。