2019年6月20日木曜日

学校・教育総合展(EDIX)

東京ビッグサイトで開催されている,学校・教育総合展に行ってきた。展示を見る時間はなく,講演を2件聞いたのだが,その感想を記しておく(あまり肯定的な感想ではない)

最初は,「大学のICT利活用の現状、課題」パネルディスカッションを拝聴。パネルディスカッションといっても,パネリストと司会者合わせて6名の方のミニ講演だった。皆さん,大学ICT推進協議会(AXIES)の要職を務められている。話は,CIO(最高情報責任者)という役目の理解浸透,AI・データサイエンス教育,クラウド技術活用,ICT活用,ICT技術の動向,研究データ管理それぞれについて,AXIESでの議論の様子だった。
その中で特に気になったのは,AI・データサイエンス教育とICT活用の2つ。

最近政府がAI・データサイエンス教育を文系理系とはず小中高大すべての課程で必須化するという話を受けての対応がテーマだ。政府の方針はその中身が課題だが,AI・データサイエンスが教育の非常に重要なテーマであることは間違いないだろう。
AXIESではこの指針をうけて,メディア授業の議論をしているという話。リモート授業とかMOOC(録画授業のネット配信をつかったコース)の活用などだ。その場合授業が個々の教育機関にはとどまらないので,学生が大学という組織をこえて,何を履修し何を見につけたかが重要になる。学生が履修した内容のバッチを獲得して身につけるというイメージで語っていた。
しかし,AI・データサイエンス教育というのはこんな話だろうか,最近ICTについて書いたがAIとかデータサイエンス教育の課題は,将来ICT技術と人がどのように共存するかだろう。授業のメディア化や多様化もあるが,これを主としてAI・データサイエンス教育を語っているとしたら課題をあまりにも矮小化していないだろうか?

ICTの活用についても似たような危惧を抱いた。講演者の方曰く,「ICTに対する理解はすすんでいる。」それは良いが,その後に「理解が進まないと困る」と付け加えた。どういう意味だろう。「困る」だれがどう困る?もちろん教育が不十分だったら将来の人類が困るのだが,そのような意味で「困る」と言ったようには聞こえなかった。ICTを普及させること自体が目的なので,理解が進まないと困ると聞こえた。それで良いのか??
もうひとつBYOD(Bring Your Own Device)にも触れていた。大学生皆がPCをもって授業を受けるという取り組みだ。そのなかでBYODの目的について,「学生全員が,pcについて詳しくなる」というようなことを言われた。あれ?あれ?だ。pcの技術なんて,10年たてば全く変わっている。pc自体に詳しくなるのは,その必要がある一部の学生だけでよい。大多数の学生とって重要なのは,pcを有効に活用した授業をうけることができる,将来のAI社会を見据えた教育を受けることができることだろう。う〜む。。。だ

パネルディスカッションの後は,
マイクロソフトが考える Future Ready Skill―21世紀を生き抜く力 AIロボティクスを使いこなし, 社会で活躍するための'未来のスキル'
いう講演を聴いた。
マイクロソフトがこの題目で何を語るのか,数百人入る会場は満席だった。
AIの発展について,数年後には多くのことが機械でできるということを実例を上げていた。ICTの最前線を担う会社の方の話はそれなりの説得力がある。
気になったのは,AIが人から仕事を奪うというこについてのコメントだった。
人間が関わるところ,感情を読むとかそような部分をコンピュータが苦手な例としてあげていた。本当だろうか。人が会話するとき相手の口調や表情から相手の感情を推し量る。Lie Spottingというのはそれによって嘘を見抜く技術だ。これ,画像認識とか音声認識を使ったAIには最も得意な分野ではないだろうか?
私の意見はAIにできないことを今の技術から想定することは危険,だ。。
もう一つ講演者の方は,AIが人のできることの多くをできるようになるが,同時に多くの新しい仕事を生み出すといわれた。具体例がなかったので詳細は不明だが,本当だろうか。楽観的すぎないだろうか。

私は,AIが人間のできることの大半を人間を超えて行う能力を身につけることは想定して置かなければならないと思う。その上AIとどう向き合うかが,今から考えて置くべきだ。
マイクロソフトのような世界最先端のICT技術をもつ会社の方がの,言い方としては,安易にすぎると思ったのだが,杞憂だろうか。

AIやデータサイエンスの将来と人の関わりを考えた教育について,もっと突っ込んだ真剣な議論を期待していたというのだ,正直なところだ。




2019年6月4日火曜日

ICT活用って?

情報通信技術(ICT)の 教育への活用についてちょっとまた考えている。
今年(2019年)2月に 大学の教育における必携 PC の活用についてシンポジウムを行った。
私が主旨説明で言ったことは,「 ICTの利用を目的にしてはいけない。目的はあくまで 教育に資するためのICT活用 である。」とだった。
一方でちょっと別なことも言った。 今の大学教育を受けている年代が ,社会の中枢を担う年代になる数十年後, AI に代表されるICTの社会への影響は 予測できないほど大きなものになっている可能性がある。そのような時代の中核を担うすべての学生に,ICTに 慣れ親しんでもらうことが必要ではないか。何ができて 何ができない。どのような可能性がある。 そのようなことを実体験を通じて実感してもらうことが重要ではないか。 そんな話をした。
 これはICTを使うこと自体が目的ではないという趣旨とは矛盾している。授業を担当している教員にの一人として,教育を充実させるための活用は常に考えているが,それにも増して学生にICTを経験してもらうこと自体の重要性が高くなってきている。そんな気がする。

2019年6月1日土曜日

人は科学が苦手?(読書感想文)

 三井誠氏の「ルポ 人は科学が苦手 アメリカ科学不信の現場から」を読んだ。感じたことを羅列してみる。

 人の行動を支配するのは,主観や抽象的な考え方 だということを再認識している。人は,まず 主観によって自分の行動を決める。 客観的,論理的な思考によって行動することの方が希だろう。 ほとんどないと言っても良いのではないか。ユヴァル・ノア・ハラリ氏によると,抽象的な概念を共有し,多くの人がそのもとに行動することが,人類の人類たる所以であり繁栄の礎ということだが,それは諸刃の刃でもある。
 この本のタイトルにある「人は科学が苦手」というのはこの主観基づいた行動と,科学的・論理的な行動の相反を意味している。ハラリ氏によると,人が抽象的概念の共有という能力を身につけたのは,約7万年前ということである。科学の歴史はせいぜい千年だろう。現代人に科学的な論理に基づいて行動をせよというのは,そもそも無理なことなのか。

 興味深い記述があった。エール大学のカハン博士の研究ということだ。
地球温暖化が 人間の活動によるかどうかについて 科学的な知識と支持者政党の関係を調べた結果である。科学的知識が少ない層では支持政党による差はないのだが,科学的な知識が多ければ多いほど民主党支持か共和党支持によってがはっきり分かれるということだ。もちろん民主党支持者の方が地球温暖化は人類の活動の影響だと考えている。共和党は逆である。
 もう一つ,いわゆる進化論を信じるかどうかについて,信仰心が平均以下のグループと平均以上のグループを比べた結果があった。キリスト教では世界は約6000年前に神によって創造されたのであり,それ以前の歴史はない。これも科学的な知識が 少ない場合は,信仰心の大小において差はないのだが,科学的な知識が多くなれば多くなるほど 信仰の有無によって進化論を信じるかどうかに大きな差が生じる。 信仰心が 平均以下のグループでは, 科学的な知識が豊富になると100%近い人が進化論を信じているのだが ,信仰心が平均以上のグループでは進化論を信じている人は20~30%程度だと言うことだ。
(2017年のギャラップ社の調査によると,進化論を信じている人は全米で2割程度とのことだ) 

 この意味するところは, 人は科学的な知識を、主観によって決めた主張を補強するために利用しているということだろう。客観的な事実を公平にみているのではなく,自分の主張にあった情報を選択している。科学者は,論理的な思考や客観的な事実 に基づいて行動を判断するように訓練されている。だがそれは,人類全体からみるとごく少数の希な集団だ。科学者はそのことを認識することが重要だ。
( 科学者が自分の行動を論理的な考察によって選んでいるか?それも 甚だ怪しいと私は思っているが。。)

科学コミュニケーションを考えるとき、「多くの場合に人は、主観的理由によって まず結論を決める, 論理的施行や科学的事実というのは後からそれを補強するために用いる。」ということを 考慮しなければならない。科学的,論理的な説明をいくら行っても コミュニケーションは成り立たないだろう。
一所懸命科学を説明して分かってもらおうとするのは,科学者が陥りがちな間違いだ。 科学や論理はコミュニケーションの必要条件にはなっても,十分条件とはなり得ない。一方,主観はそれ自体で,意志決定の十分条件になり得る。トランプ大統領の誕生はそれを物語っている。

 科学コミュニケーションをどのようにすればいいか? これはなかなか難しい。
この本に書かれていることは,相手が科学的な説明や論理を受け入れないときに,相手に反科学というレッテル貼ってはいけないということだ。これは科学対反科学という不毛な対立構造をつくる。

 話し相手が 科学的な理解を受け入れない時,その 背後にある理由を考える必要がある。
例えば地球温暖化 が人の影響ということを信じない人は,企業や経済活動が 規制されることが本当の反対理由であって, 科学的に信じないということを,本当の理由の煙幕として使っているということだ(テキサス州立大ヘイホー博士)。
 私が時々出くわす放射線に対する考え方も似たよう状況があると思う。 放射線の人体に対する影響について,科学的な考え方を説明しても それを受け入れることが できない方は多い。その人たちは 結局のところ,原子力や放射線をとりまく状況や政策について不満を持ってたり,放射線という言葉だけで拒否反応を示していると感じることがある。 

 相手は 本当は何を望んでいるのか?  共有し共感できる ものは何か?そこに思いを巡らすことが必要だろう。
科学的な事実をひたすら論理的に説明だけでは,コミュニケーションにはならない。。
(というのは簡単だけどね。。。~)