今年のセンター試験の国語の平均点が低い。その一因が,小林秀雄氏の「鍔」を元にした問題が出題されたことだという報道があった。その真偽はさておき,学生時代に小林氏の文章に悩まされたことが思い出された。
最初に出会ったのは,高校の国語の授業だったと思う。何を書いているか分からなかった。大学生のころもう一度読んでみた。やはり分からない,,と思っていたところに、高見澤潤子氏の『兄小林秀雄との対話』を見つけた。文章が難解なのは相変わらずだが,少しだけ親しみを覚えるようになった。
その後長い間ご無沙汰していたが,センター試験のニュースを聞いてもう一度読んだ。図書館で,小林氏の文章のなかでも難解といわれる「無常というふ事」を手に取った。 う~~む。。やはり分からん。「無私に見る,考える」ということかなと、何と無く感じる。しかし頭の中は靄がかかったような感じだ。
科学者が研究結果を発表する時は、論文と言う形をとる。それは正確に本質のみ記述している。そのかわり、専門知識を持った人間以外は理解不能だろう。小林氏の評論も同様ではないだろうか。彼が考えたことを虚飾を排して彼の言葉で書いている。それを理解するためには、読み手の日本語で能力はもちろんだが、彼の文章や志向、時代背景に至るまで、かなり高度な知識を要する。つまり、そのような専門家とも言える者以外に、彼の評論が素晴らしいから読むべきというのは、アインシュタインの論文は非常に素晴らしいから原論文で読めというのと同じではないか。アインシュタインの原論文の素晴らしさが分かる能力は,科学者としては優秀かもしれないが、それだけのことだ。小林氏の場合、それが科学論文ではなく日本語で書かれた評論なので、そこに錯覚が生まれていないか?
「芸能人格付けチェック」と言う番組がある。芸能人が、目隠しで、高級ワインと安いワインの飲み比べや、ストラディバリウスと普通のヴァイオリンの聞き分けをするが、多くの人が外す。ワインに至っては安い方が美味しいという人も多い。これはある意味当然で、高級ワインはある程度くせがある。安いものは万人受けするように口当たり良く作っている。ワインによらず高級品の多くは、その道の専門家の間でのみ通用する価値、と言う側面も強い。
センター試験に出題されたのは「鍔」からだった,小林氏の文章のなかでは,分かりやすい方だと思うが,面食らった受験生が多かったのだろう。誤解の無いように言っておくが、国語の能力は論理的な考え方の基本。文章を読み、書くという事は非常に重要だ。私など物理学科の試験に物理は要らなくても国語は必要と思っている。ただ小林氏の評論は、理系で言えば専門家が専門家向けに書いたものと考えた方が良いと思う、という事だ。
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